そのあいのおもいで
いつもなら、恩着せがましい言葉の一つでも返ってくるのに珍しい。らしくないほどの労わりの言葉に俺が目を丸くすると、柳の隣で汗を拭っていた真田が会話を聞いていたのか
「俺のでよければいくらか分けよう」
と提案し、
「すまないな、しかしお前が飲め」
と返されていた。仲がいいのか気を使っているのか分からないが、もしかしたら当人同士には伝わるジョークのようなやり取りなのかもしれない。
「なら俺が飲もう」
と幸村が首を突っ込み、二人に揃って
「駄目だ」
と即答されていた。
「なぜだ、柳が飲まないなら無駄になるじゃないか」
「無駄にはならん、自分で飲む」
「精市だって自分の分があるだろう」
「もう飲んじゃったよ」
「考えて配分しろ」
「あ、そうだ。柳が俺の分も買ってきてくれればいいんだ」
「はいはい、行って来るよ。ジャッカルが」
「俺かよ! ていうか柳まで何言ってんだよ! ホラ丸井、お前のせいで柳まで変なこと覚えた」
「俺のせいじゃないC~」
「何のネタだよ。つか背伸びしてまで顔近づけてガムくちゃくちゃしてくんな! ムカつくな!」
「ジャッカル、たるんどるぞ」
「何で俺が言われるんだよ。明らかにこいつらのがたるんでるだろ」
普段通りのかけあいがひどく懐かしく愛しい気がして、俺は会話には加わらずに小さく笑った。そんな様子を見ていたのか、柳が長い足を折って俺の前にしゃがみこむ。
「熱はどうだ?」
額に当てられる手は冷えていて、心地いい。俺は目を閉じた。
「多分ない。朝メシ食い損ねたからエネルギー切れじゃろ」
「そうか、ならいいが、無茶はするな」
「なんで今日はそんなに優しいんじゃ? そんなに親切にされると、病人になったみたいじゃな」
ただの立ちくらみに大袈裟だと笑うと、急に周りがシンとした。
どうしたのかと慌てて顔をあげてみれば、全員が真顔で俺を見つめている。自分だけが座った状態のまま無言で見下ろされる不安感に耐えきれず、俺は取り繕うように笑ってみせた。
「なに、どうし……」
「なあ、お前。気づいてねえの?」
言葉は丸井に遮られた。
「何が」
「顔色、青を通り越して真っ白なんだけど」
丸井は笑わず言った。俺は俺を見下ろす全員の顔をゆっくりと眺めた。
誰一人、笑っていなかった。
結局部活は早退した、というかさせられた。自分の部屋で床に寝転がって柳との会話を反芻する。
それぞれが弁当を食い午後の部活に行ったあとも、柳は俺と話していた。病気じゃないのか、と尋ねられ、本当に違うと首をふった。ならどうした、と言いながら柳は俺と並ぶように背中を壁にもたれて床に座る。少しでも話しやすいようにという配慮だろう。俺と柳は思考が似ているらしく、小さな仕草の意味までもお互いに読み取ることがよくあった。それに小賢しいと苛立つこともあったがおそらくお互い様だろう、気が合うというよりも根本的に相性が合う割に今ひとつ本当に親しくなれない理由もそこにある。しかし妙に他人と思えない分、いざという時に頼りにしたくなる相手でもあった。
「……笑われるかもしれんが」
切り出すと、
「笑わない」
と真剣に言われた。俺はうかつにも泣きそうになる。
「……信じろとも言わん。俺も信じられん……なあ柳……お前、妖怪とかって信じるか?」
「……?」
怪訝な顔にかまわず、俺は柳を見ないまま続ける。
「何百年も生きてたって信じるか? 俺が……昔の俺が、その妖怪と暮らしてたってのは? その妖怪が俺を捜しにきたってのは? ……そんな奴に一緒に暮らそうって言われたらどうする?」
膝に顔を埋めて吐き出す。不安を口に出せば出すほどに怖くなった。震え出しそうだ。俺はどうすればいいんだ。あいつの言うことを聞くしかないのか。あいつを納得させられるような言葉を俺は持っているのか。俺だけを数百年待っていたという思いに打ち勝つほどに俺の拒絶は力を持っているのか。
人違いかもしれない、という、それだけの可能性でしか、俺はあいつを退けられない。
柳はしばらく黙っていた。沈黙のあとの言葉は緊張にこわばっているように聞こえた。
「……その言葉が、全て本当だとして」
俺は笑いそうになった。そんなことは信じられないお前の、それでも倒れるまでに追い詰められた俺の様子を見ての、たぶん俺の頭がおかしい可能性までを考えての、最大限の譲歩の言葉。
ああ本当に、おかしいならよかった。俺の頭がおかしいならよかった。本当は柳生なんて存在していなくて、全部俺の妄想で、夏の暑さにやられて俺が正気ではないくだらない妄想を事実だと思い込んでいるだけならよかった。
口元が緩んだ。俺の笑いは相当気持ち悪かったのか、柳が少し引いた気配がした。ぎゅっと眉をしかめ、開いているのか閉じているのか分からない目で俺を見つめ言った。
「一回二回のことじゃないのか」
「ああ、ここんとこ毎晩で、ろくに眠れん」
「……今夜も来ると思うか」
「ああ、来るじゃろうな」
俺を連れていくまで。
柳は下を向いてくくっと笑う俺の肩を掴んで揺さぶった。思った以上に強い力に、首から頭ががくがくと揺れる。まるで悪い夢でも掃うようだ。俺はぼんやりと思った。
「仁王」
端的に呼び捨てられるのが心地いい。仁王くん、という、優しいくせに何かを求めるような響きはもううんざりだ。
「ん」
「お前は、それが嫌なんだな」
「……」
一瞬の間が必要だった、毎夜延々と繰り返される説得と抵抗の意味を、俺は半ば見失っていた。もはや断らなければ、という意識だけがあって、その根底にあるべき拒否の気持ちすら見失いかけている。
正直に言ってしまえば、俺は半ば諦めていた。このまま問答が続けば、そのうちに俺が柳生を突っぱねる気力をなくす。そうして、ついに焦りも衰えも知らない、異常なまでの熱心さで繰り返される柳生の言葉に頷いしまって、
それで終わりだ。俺はここからいなくなるだろう。
「……嫌だ」
俺は柳の腕を掴み返した。
「本当は、嫌じゃ。こんなのは嫌だ……俺は怖い。断ってるのに、絶対に諦めないみたいなんじゃ。……俺は怖い。このままでいたい……ここで暮らしたい……お前らといたい……」
嫌だ、と、言ってもいいのだと、俺は泣きそうになった。俺の言葉を信じていないだろう相手にさえ、打ち明ければそれだけで救われるようだった。自分の精神がどれだけ弱っているのかを改めて知る思いだった。
誰からも信じてもらえはしないだろうと分かっていた。誰に相談することもできないまま、毎夜の来訪を、なんとか一人だけで持ちこたえてきた。相手が俺に暴力を振るわないことは確かだったが、毎晩、今夜こそ力尽くで連れてゆかれはしないかと心臓が凍るようだった。ありもしない記憶を思い出せと迫られ続けることは、気が狂いそうな苦痛だった。それでも、家族に被害を及ぼすよりはと耐えるしかなかった。柳生はそんなつもりはなかったかもしれないが、姉貴と俺が似ているという言葉は、心底俺を戦慄させた。俺が家族を守らなければ。その思いは強迫観念のように強く、俺に毎夜ベランダの鍵を開けさせた。
「柳。柳、俺はどうすればいい。何かできるのか。俺は、あいつを追い返せるのか。俺に何ができるか、教えてくれ、なあ」