そのあいのおもいで
「落ち着け、仁王」
柳は俺の剣幕に驚いたように目を開いたものの、すぐに子供を宥める(というかたしなめる)ように低い声で言った。そして俺が口を噤む一瞬の隙をついて続ける。柳はこのへんの呼吸は抜群にうまい。
「断言はできない。俺はお前を助けられないかもしれない」
それでもいいと幾度も頷く俺に、真顔で冷静に続けた。
「なら、もっと状況を把握する必要がある。いつから何が起こっているのかを、できる限り詳しく話せ」
眉を寄せ、厳しい顔で考え込むように柳は言った。俺は柳の、多分損得のない友情に感動して、膝でもついて祈りたい気分になった。もしお前の考えたことが何の効果もなくて、俺が近く柳生に連れ去られて一生お前たちのことを考えながら助けも得られずに死ぬとしても、今日ここでお前に抱いた感謝は忘れないだろう。
「…………」
こんこん、というノックで我に返る。体を起こし、窓の外に立つ柳生に目をやった。
「開いとるよ」
声をかければ、少し不思議そうに瞬きをし、おずおずという表現が似合う手つきでガラス戸を開け入ってきた。どこにでもありそうなシャツとパンツ。その下からのぞくのが素足だというのが少し気になるが、どうなっているのか足も服も汚れた様子も、傷ついた様子もなかった。
柳生は訪ねてきたくせに居心地悪そうに少し距離をとって立つとそっと俺の顔を窺い、膝に手をついて立ち上がった俺は、柳生にかつて見せたことのないような笑みで応えた。
「に、おう、くん……?」
不安げに眉を下げ柳生が呟く。なんて顔だ。なんて顔をするんだ、化け物のくせに。ぐしゃと顔が言い表しようのない感情に歪んでしまいそうで、俺はますます明るく笑ってみせた。
「なん、そんな顔しとるんじゃ」
「……」
「お前らしくないの」
「……仁王くん?」
俺からかけられる言葉に、柳生はゆっくりと瞬きを繰り返す。俺の言葉が信じがたいか、もしくはまったく信じられないと言いたげに。
「柳生、どした。……俺のこと、忘れたか?」
にこ、となるべく優しげに微笑んで腕を伸ばすと、時が止まったかのように棒立ちに突っ立っていた柳生の体が、はじかれたように俺に向かって投げ出された。
俺が驚く間もなく、柳生は両腕できつく俺を抱きしめ、肩に顔を埋めた。俺より少しばかり背が高いくせに、それは赤ん坊がやっと母親を探しあてたような切実さに満ちていた。
「……、仁王くんっ……!」
一言だけ吐き出される。感極まったように震える声に、背筋がぞっとした。柳生の感情や感覚のすべてが、丸ごと俺へ向けられていた。
「や、ぎゅう」
抱き返すこともできずに俺は呆然とした。今まで見せていた落ち着きも穏やかな物腰も嘘だったかのように、柳生の感情が剥き出しにされている。子供のように単純に、俺だけを求めている。
おそらく今夜で全てが終わる、と俺は予感した。その結末はもしかしたら俺ではなく、柳生の望む形であるのかもしれない。
「仁王くん、仁王くん、仁王くん」
化け物の二本の腕には痛いほどに力がこもっていた。骨が軋むほどに、呼吸さえうまくできないほどに俺は抱きしめられていた。柳生の体は人間にはありえない無機質の冷たさをたたえていて、けれど密着していればその奥からかすかに、生き物にしかない鼓動が伝わってきた。
「思い出してくれたんですね。思い出して……仁王くん。仁王くん、仁王くん、会いたかった」
ひっ、と短く息を吸う音がした。柳生の肩が震えた。柳生は顔を上げないまま続けた。
「ずっと寂しかったです。ずっと、ずっとずっとずっとずっと。あなたのことばかり考えて生きてきました。あなたのことだけ考えて、一人でずっと、……っ、……ま、また会えると思おうとして、信じきれなくて、でもその言葉がなかったら私にはもう何もなかったから、ひたすらそれだけ繰り返して、あなたのことだけ考えて、ずっと、今まで、ずっと……」
それまでの孤独な数百年を思ったのか、まるで寒いかのように柳生の体は震えた。俺は別の意味で恐怖した。今まで笑顔で訪ねてきては嬉しそうに俺の顔を眺めながらいくらか楽しかった話をして、俺はそれが全てだと思っていた。鬱陶しいと、振り払いたいと思い、なぜ柳生は諦めないのかとそればかり考えていた。……柳生が過ごしてきた俺との何十年と、そしてもしかしたらその十倍以上もの長い孤独な月日に、一度も思いを馳せることなく。
それほどの時間を耐えてまで俺にまた会いたいと願い、そして今日まで同じことを願い続けた柳生の思いを推し量ることもせず、ただいなくなれと、そればかり考えていた。
同情したらいけない。頭では分かっていた。しかし、俺はこの数日の接触で、柳生の感情や感覚は今生きている俺となんら変わらないものであると知っていた。それはつまり、喜怒哀楽をもったまま一人数百年生きた柳生が、どれほどの孤独や寂寥を感じていたかということを理解していたということだ。
「会いたかったです。会いたかった。生まれ変わるだなんて言葉を信じてあなたを手放したことを死ぬほど後悔しました。あなたがいない日々は信じられないくらい長くて辛かった。これからずっとこんな時間が続くのかと思うと目眩がしました。あの時、あなたと一緒に死んでいればよかったと……今からならまだ間に合うかと何度も思ったけれど、死んだらあなたと本当に二度と会えない気がして怖くてできなかった。目を覚ましてもあなたがいないことは辛かったけれど、それ以上に、もう二度と会えないことが怖かった……!」
柳生は言葉を切り、少し息を整えようとしゃくりあげた。大きく深く息をするが、それさえ激情に乱れた。俺の体を確かめるように、背中を震える手が幾度も往復する。そういえば、柳生は今日まで一度もこんなふうに俺に触れはしなかった。思わずといったふうに腕を捕んだことは数度あっても、一度も、『恋人であった』頃のように俺に触れはしなかった。