そのあいのおもいで
柳生は泣き腫らした目でそれでも愛しそうに嬉しそうに俺に微笑む。赤ん坊のようだ、と場違いに思った。何の憂いも不安もないただ純粋に表情を緩ませた、赤ん坊のような笑顔だった。
俺にはきっと耐えられない時間を歯を食いしばって耐え、歓喜の瞬間からじりじりとさらに十余年を過ごし、我慢の果てに会いに来た相手に拒絶され、それでも見せなかった辛さをタガがはずれたように訴えてようやく心に背負った荷物を降ろしたのか、柳生はまったく無防備に俺を見た。
俺の返事を疑ってもいない顔で。
俺はひどく揺らいでいた。もしかして俺と柳は、ひどく残酷なことを企んだのかもしれない。
「……悪い」
「え?」
呻くように呟いた俺に柳生は首を傾げた。聞き取れなかったのか、それとも何に対しての謝罪か分からなかったのか。
一通り俺の話を聞いた柳は、一芝居打ってみたらどうかと言った。よく意味が分からない俺に、考え考えゆっくりと、お前の言葉だから駄目なのかもしれない、記憶を取り戻したふりをして、そして断ってみたらどうだ、と提案した。柳自身あまりうまくいくとは思っていないような口ぶりだったが、俺はそれに飛びついた。
毎夜の懇願に疲れ果て、柳生をそこまでさせるに足るものがあるということにも思い至らず、それで全てが終わるならと深く考えもせず頷いたのだ。
「仁王く」
「柳生」
遮られてもおとなしく待つ。昔の俺がここまで躾けたのか、もう俺を失いたくないという気持ちが柳生にそうさせるのか。
「俺は、いけない」
「な……」
目を見て言うことはできなかった。俯く一瞬の間に、柳生の目が動揺に揺らぐのが分かった。
「え、な、仁王くん? 思い出したんじゃないんですか? 思い出してくれたんじゃ……あの時言った言葉は嘘だったんですか? 気が変わったんですか? なぜ……教えてください、私にできる部分は直しますから」
両肩に縋るように手が乗せられて、ああ初めて会った日もこうだったと思い出す。ずいぶん遠くの話のようだ。たった一週間でこうなのだから、一年は、十年は、百年は、どれほど長いのだろう。俺が余裕で何回も生まれて死ねるほどの時間を待ちながら、柳生自身も怖がっていた。もはや俺の言葉の真偽を確かめることもできず、待っていていいのかとさえ怯えながら、それでも諦められなかったのだろうか。再び、愛した相手に愛される日々を。
「俺、は……」
言わなければいけなかった。俺はここで、もうここの暮らしに慣れてしまったと、今さら山では暮らせないと、そんな時代ではないと、俺は人間だから、やはり人間と暮らしたいと、言わなければならなかった。
言葉は一つも出なかった。
俺は下を向いて拳を握って立ち尽くしていた。熱い感情がこみあげて、無理に殺そうとしたらぐうっと喉が鳴って息が詰まった。喉奥に綿をいっぱいに押し込まれたようで、泣いてもいないのにしゃくりあげないと呼吸ができない。
「に、仁王くん、どうしたんですか? 辛いんですか? 仁王くん、仁王くん」
おろおろ声で柳生は言った。いたわるように手が背中をさする。その低体温を、もう不快だとは思わなかった。
「柳生。……柳生、ごめん」
どうにかそれだけ言った俺を柳生は抱きしめた。子供を慰めるやり方で頭を抱かれ、困ったような気持になる。
「どうしたんですか。謝ることなんてありません」
俺に何を言われるかも知らずに言い切る柳生がいっそ憐れだ。お前は俺を連れていきたくて、俺はそれを拒絶したい。話は単純だ。あとはどちらが折れるかだけだ。そして俺は一度お前を喜ばせ、そのあとどうしようもないほど打ちのめそうとしている。お前の気持ちは考えにいれず、どうにか付け込む隙のない言い方をしようと、友達と相談までして。
「柳生」
「なんですか」
お前の、愛した人間に向ける顔はとても無防備だ。こっちの事情など理解できずにじゃれついてくる犬のようで、飼ってやれないのなら見たくもないような気持ちにさせる。
「俺は、お前の好きな俺じゃない」
「……え?」
「ごめん、思い出してなんか、ない」
顔を上げて告げることもできないくせに、騙し通せもしなかったくせに、一緒にいたって愛しても支えてもやれないくせに、それでも危険なものに触れたようにばっと俺から離れる体になんだか寂しさを感じた。
「…………」
柳生は一歩後ずさる。仁王くん、と低く警戒するように名前が呼ばれて、俺は耐え切れず両手で顔を覆った。
「ごめん。俺はお前に応えられない。俺は何も思い出せない。一緒にいけない。お前と一緒にいれない。行きたくない。お前と行きたくない。このままここにいたい。何回お前が来ても、何回言われても、絶対無理じゃ。俺はお前と行けない」
それだけを繰り返す。何回言っても意味のなかった拒否の言葉を、柳生はじっと聞いていた。反論もせず、説得もはじめず、ただじっと沈黙だけが落ちる。
どちらも口を開かないまま時間が経った。何十分にも感じたが、もしかしたら一分にも満たないくらいだったかもしれない。心とまではいかなくても呼吸を落ち着かせた俺は、顔から手を離し目を開ける。柳生は凍ったように動かないまま俺を見ていた。顔には何の表情もなく、何か言いたげにかすかに唇を開けたまま、柳生は動かなかった。その目の中に言葉にはならないようないろいろな感情が、渦巻いては色を変えるのを見ていられずに俺は目をそらす。
「……柳生」
呼んでも答えは返らなかった。それからの沈黙に、もう一度声をかけようかと迷っていると、ぽつりと小さな声が聞こえた。
「あなたは」
その声の力のなさに俺までが辛くなる。
「仁王くんじゃないんですね」
熱のない、虚ろな声だった。そろそろと表情をうかがうと、柳生は心の支えを失ったように、ぼんやりとどこを見ているか分からない目つきで、俺ではないあたりを見ていた。
もう一度生まれ変わりを待て、などと、言えそうもない雰囲気に唾を飲む。なんてことをしたのだろう。これしかないと思ったくせに俺は後悔をした。
あなたは、私の求めていた仁王くんじゃないんですね。
柳生の言葉が刺さるようだった。俺は何も悪いことはしていないはずだけれど、きっと柳生もしていない。どちらも悪くないのにどちらもがどうしようもなくなっている。
「……愛していました」
そっと囁くように柳生は言った。そしてここにいる意味も失ったのか、ゆっくりとベランダへ足を向ける。
死ぬ気だろう。俺は思う。もう一度会えるという希望は、俺の言葉によって支えられていたものだ。それを俺に否定されれば、もう柳生にできることは何もない。きっと死ぬのだ。一人、山の中で。あの時俺を説得してでも一緒に死ななかったことを悔やみながら、無意味に生きてしまった長い月日を悲しみながら。
そして名前を呼ぶのだろうか。心底愛しぬいた相手の、俺のものでもあるその名前を。
「柳生」
呼び止めた。振り向いたのは奇跡のように感じた。
「これ」
机の引き出しを探って、髪を染めた記念に丸井ととったプリクラを渡した。細かく分割したせいで、指先でうっかり弾いて落としてしまったら二度と見つからないようなサイズだが、大きいものがなかったんだからしょうがない。