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【こたつる】儚くも虚ろわざる想いあれ【連載中】

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【1/17】


一瞬、風が震えた様に感じた。

「……」

「あ、宵闇の御方! そろそろ湯が温まりますよ~一緒に入りましょう!」

そう云って、ぐいぐいと袖を引っ張る彼女に和んでしまい思わず反応が遅れた。
今、共に風呂に入れと云われなかっただろうか?

「お背中、流すんです!」

どうだと云わんばかりに誇らしげな様子に慌てて首を振ると、掴まれた袖を振りほどいて数歩後ずさる。

おかしい。自分はこの様な事を教えていない筈だ。
家事をするのがほぼ初めてに近いであろうことは日頃を見ていたら直ぐ分かる。
そんな彼女が、背中を流す事がお世話になるとも知る訳も無く、昨晩までは別々に入っていた。

「そうしたら喜んで貰えるって髭のおじさんが…」

しゅん、と声を小さくしながら震える彼女に慌てて近寄り、必死に頭を撫でて怒ってはいないと示す。

どうやら食料を調達するためにしばしば山にやってくる男の入れ知恵らしい。
今の己とは違い、方々での雇われ忍の任を終えて北条に仕えている忍だ。
味方では無いが、雇い主と北条の対立も無いため、あえて攻撃する事も無い。

しかし、何処から仕入れた情報なのか彼女の存在を知って、やたら構い始めたのは気に食わなかった。
元より風魔をからかうことを、まるで生業であるかの如く精を出す男である。
彼女の存在は思いもよらぬ好機であったのだろう。

「じゃあ、一緒に入りましょうね!」

途端に花開くような笑みを見せられては、どうしようもない。
姿は見えずとも、隠しきれぬ好奇の気配を睨みながら、コクリと小さく頷いた。
しかし先ずは手始めに、風呂に入ってる間の火吹き男を捕まえてくる事としよう。



「お傷、痛みませんか?」

その言葉を聞いた瞬間の動揺は計り知れなかった。
おそらく、外で薪を足す彼にも伝わってしまっただろう。

「腕がこんな紫に…」

一つ一つの刀傷を確実に捉えている所を見れば、彼女の言葉は嘘では無いのだろう。

彼女の反応は確かに常人の其れであり、特に驚くべき所は無い。
問題は傷が見えていると云う事だ。そう、常人には見える筈が無いから驚いた。
確かに今、彼女には暗示をかけている筈なのだ。
誇る気は無いが、この様な術をしくじる程に腕は悪くない。

つまり、彼女は術を見破ったのではなく、元より暗示が効いていないと云う事なのだ。

だからこそ、彼女を此処に留めていた理由を再び思い出す羽目になった。
そうだ。彼女は、普通の宝では無かった。普通の人間では、無かった筈だった。
その理由は見つからぬまま留めておいたが、もしや此れが因の一つなのではなかろうか。

「もう、治らないのですね…」

縦に伸びた大きな傷に、まるでそうしたら消せるかのように掌を押し付けて哀しげな顔をする。
幼子だからと、おそらく捕らわれた理由も知らぬだろうと高をくくっていたが、もしや彼女は全て知っているのではないだろうか?
もしや、自分は此の子供を見くびっていたのではなかろうか?

そう、と其の頬に手を伸ばし目尻をなぞってみると、彼女の肩が小さく震えた。

親指で押し潰せそうな程に小さいまなこに、此の中には何が映っていると云うのだろうか?
此の目は、其れほどに価値のある物なのだろうか?

「宵闇の方も……此れが、大事なのですか…?」

震えながら、傷付いた様な顔で、それでも真っ直ぐに問いかける彼女にハッとする。
それと同時に、外から間延びした気の抜けた声が掛かって来た。

「おいおい、嬢ちゃん泣かせるなよ~。いくらなんでも小さな可愛い子を苛めるのはオジサン許さないぜ~」

一見、へらへらと呼びかける中にも微かに殺気を滲ませてくる。
どうやら、彼女は随分と愛されているようだ。

「……」

ぽちゃん、と掌を湯の中に落とすと一呼吸置いて立ち上がった。

「きゃあ!!」

急に湯の量が変わって、風呂桶の中で溺れる彼女を抱えるとそのまま手拭いで包んで水を拭う。
外から、もういいのかと呼びかける声があったが、聞こえぬ振りをして其処を後にした。

寝着に身を包ませ、そのままやや乱暴に布団へ突っ込むと何やら不安げにこちらを伺ってくる。
其処でようやく、いつもの兜が無いのが原因だろうと思い、其れを瞬時に持ってきて彼女の上に乗せた。
まるで鏡餅の上の蜜柑の様だが、何やら満足したのか、ありがとうと彼女はまた其の言葉を繰り返す。

そのまま安心した様に目を閉じた彼女の傍をそう、と離れて庭に出る。
其処には男が置いて云ったのであろう、数行ばかりの文が置かれていた。



きゃ、きゃと動物と仲良く戯れているのは、やはり良い処の姫の様で似合いだ。
しかし、戯れている動物に問題がある。

確かに彼女は馬と遊んでくると言って庭に出た。
其れを信じて、少し経ってから様子を見に来れば此の有様。
何処から入りこんだやも分からぬ程の巨大な真っ白な虎が、彼女の上に覆いかぶさっていた。

一瞬、襲われているのやと懐の刀に手を伸ばしたが、どうやら虎の方は襲う気配も無く喉を鳴らして彼女に甘えていた。
人には慣れにくいであろう彼の動物をどう手懐けたのか、首にしがみ付く彼女の服を銜えると、そのまま背に乗せたりと非常に従順だ。

これも、彼女の性なのだろうか?

「あ、宵闇の羽の御方ーー!!」

屋根の上で眺める己を見つけた彼女ぶんぶんと腕を振って来た。
この分なら、放っておいても心配はなさそうだ。
風魔は軽く首を振って、黒羽を舞わせて其の場を離れた。

―『伊予の隠れ巫女』

此れが彼女の通り名の様な物らしい。
男の文には其の言葉と、幾らかの土地の名が記されていただけであった。
彼女の素性であろうとは分かったが、名や身分は風魔がいくら地方を駆けても得られなかった。
つまり、それだけ彼女の存在が秘事そのものであるのだろう。

どうやら、忍の足を持っても居住地すら探し当てられぬ事を考えると、忍とは違う何やらの術が地に掛けられているのやもしれない。
しかし、人の口には戸も術も永遠には掛ける事が出来ない。
おぼろげながらにも、彼女の噂を掴む事は出来た。

まず、彼女の一族には巫女として先見の務めがあるらしい。
何を何処まで見通すのかは知らぬが、其の様な力を今の世が望むのは必至。
彼女を深く隠した周りの判断は正しいと言えよう。
おそらく、目を塞がれていたのは此れが因やもしれない。

そして、もう一つ。

「お馬さん! 今度は栗拾いに、お山まで競争ですよ!」

無邪気な声に合わせる様に地鳴りの様な咆哮が聞こえたかと思えば、次の瞬間には激しく何かが砕ける音がして足音が遠ざかった。
あの様子では、入口近くの行灯が壊れたのやもしれない。
風流にこだわる気は無いが、しかし野党にでも襲われた様な家模様は流石に頂けない。

片付けに行かねばと、竹ぼうきを手に取って溜め息を付いた。
一刻もすれば、彼女が山ほどのキノコを抱えて帰ってくるだろう。
そろそろ、まともに物の名を教えるべきかと悩み所だ。

そろそろ…?

其れらを教えて何奴にすると云うのだろうか?

いつまで共に居るか分からぬ者に?

まさか自分は、あんな子供を手元に置きたいと云うのだろうか?