しあわせの残骸
02.幸 福 の 殺 め 方
イタリアの土地の食材は良いと、浮き足立つように食品店の棚を物色するご機嫌なフランシスの後ろを歩きながら、アーサーはそうかよ、と不機嫌に返した。
買い物籠は既に溢れんばかりの食材で埋まり、これ以上買うのかと思うとさすがに嫌気が差す。だから、結局は自分の土地を絶賛するフランシスの小言は聞いていない振りをした。
こいつは病気だ、と思いながら、店内を楽しそうに買い物する他の客へと視線を動かすと家族連れや恋人たちがやけに目に付いた。今日は祝日かなんだったかと思考すると同時に、フランシスが必要な分はこれで終わりと言って満足そうに買い物籠を覗き込んだ。それにアーサーは問答無用で会計に押し出し、やっと少しでもフランシスと距離を置ける場所まで来て、突然それは起こった。
車の急ブレーキの音、衝突音、悲鳴と叫び声。硝子が割れて飛び散る音。
その非日常的な音が届いた店内はしん、と静まり返り、のんきなボサノバの音楽と場違いなフランシスの緊張感のない声が響いた。
「会計よろしく」
店の外から聞こえた轟音と騒音に呆然としていたレジ店員はフランシスの声で我に返り、慌ててレジを打ち始めた。その機械音が店内の止まっていた時間を動かすように、ざわざわと客たちも騒ぎ出す。
少しずつ静寂が消えてゆく。面白いくらいに音が増えて行き、雑音が増す。
アーサーは動き出した客層を視界に流しながら、新緑の瞳を細め、ショウウインドウの向こう側を見た。
この店のすぐ傍にある交差点が見える。普段、交通量と通行人が多く賑わっている筈の場所には、車が何台か倒れ、そして人が力なく横たわっているのが見えた。
「結構買い込んだわー」
「買い物籠からはみ出してたの見てただろ髭野郎」
「美味しいもの作るには良いものが必要なの。あ、坊ちゃんに言っても意味ないか」
「どういう意味だよもういっぺん言ってみろ髭毟るぞ!」
「おーおーやってみればいいじゃない、俺だってそのパンク眉毛引っこ抜いてやるよ」
買い言葉に売り言葉を繰り返しながら、フランシスとアーサーは交差点付近に群がり始めた人の波をするすると抜けながら歩いた。
交差点の真ん中は騒然としていて、泣き叫ぶ声や野次馬の話し声、救急車を呼べ、という怒鳴り声に近いそれが満たされている。そんな場所とはまったく違う空間に存在しているかのように、フランシスとアーサーは人が流れてくる波の逆を歩いた。
大量に買い込んだ食材が入った紙袋を抱えていたアーサーは、一度抱えなおし、もう一度ゆったりと歩き出す。フランシスも重そうな荷物を持ちながら、時々アーサーが食材を落とさないかどうか見守り、軽口を叩きながら、ゆるやかに歩く。それはただの散歩のように。
フランシスとアーサーが歩いている場所には、まだ緊迫した空気が張り詰めていた。息をしてない、心臓マッサージするぞ、救急車はまだか、こっちは生きてるぞ、等といった言葉が飛び交う。
大きな交差点の大きすぎる事故。折り重なった、不運な事故。その中の一台の車がどうやら花屋だったのか、道路には無残にも美しい花たちが散り、道路を皮肉に彩っていた。それを視界に入れて、やっとフランシスが口を開く。
「悲惨なのに、あれは美しいね」
表面しかなぞらない、ただの言葉。
周りの人間に聞こえてたら、不謹慎だと罵声を浴びせられるなとアーサーは思いながら、フランシスが見やる方へと首を動かした。
其処には、赤と白と黄色を基調とした花たちが散り散りに道路に咲いて、その花の中に溺れるように一人の女性がいた。遠目から見ても出血の量がおぞましく、微動だしない。道路に引き摺られた後が見えたので、車から放り投げ出されたかとアーサーは一人で検証していたが、はたと何かを思い出した。
そうだ、あれは。
「オフィーリア」
「え、なに、知り合い?」
「ちげーよ。ハムレットの一場面を画にしたやつ、あっただろ」
「ああ。花の中に浮かんで流れる美しい水死体の画、ね」
確かにそれっぽい、とフランシスが同意する。そして、でもあれは即死だな、と哀れむわけでもなく悼むわけでもなく言う。そこに感情は一切入らない。アーサーだって、そうだ。
そんな女性の周りにやっと人が来た。大きな声をかけ、心臓マッサージを施す。地面に咲いた色の明るい花が踏まれて、少しずつ色が変わってゆくのが見えた。
「本人は何が起こったか分からないまま、だっただろうに」
フランシスはそう呟くと通り過ぎようとした酒屋を少し戻って、ワイン買ってくるからと言いアーサーの返事を聞かずに玄関口に放置して店に入っていった。その調子の良いフランシスの背中を見送り、玄関口の壁に腕を組んで凭れ、アーサーはひとり呟く。
「確かに、何が起こったのか分かってないな」
瞳の先には、花に沈んで動かない女性と助けようとしている通行人たちと、もう一人、その身体を見て佇む女性がいた。
息をしていない女性と同じ顔、同じ服、同じ髪の長さ。信じられないという様に騒然としている辺りを見回し、側にいる通行人に話しかけてみるも全てに無視され、野次馬を押しのけて到着した救急隊員と警察官をすり抜け、そして現実を理解してしまった女性がアーサーには視えた。
ああいった類のものが、アーサーには視える。神経を研ぎ澄まさなくたって、日常的に視えるのだ。だから非日常的であるフランシスにこの話をすれば、馬鹿にされてすぐ終わりであった。時々それが釈然としないこともあったが、理解されなくたっていいのだ。周りに信じてもらえなくても、構わなかった。それが自分という国であるなら。
悲しみに暮れる女性を視線を外さずにじっと見ていると、女性がふと導かれるように顔を上げて、アーサーを見た。アーサーは瞬きをひとつしてから、見えてる、と声を出さずに口だけ動かし、視線を外さずにいると、女性が弾かれたように動いた。
駆けて来た女性はおそるおそるアーサーに近寄り、自分が見えてるかどうかのジェスチャーをした。アーサーはそれに苦笑する。
「見えてるって、言っただろ」
喋るとき、アーサーはあえてイタリア語で話した。此処はイタリアの地であったし、英語が通じなくては意味がないと判断したのだが、しっかりと通じたらしく、彼女はほっとした表情を見せた。
だけど同時に急きたてるように、どうして事故になったか、これから妹の結婚式場に向かうところだったのに、と涙ながらに語り、アーサーはところどころ相槌を打ちながら聞いた。
最後に、もしかしたらという可能性が否定できないので自分の身体の側にいることを勧めた。妹のところへ行きたい、という彼女の言葉を押し止めての助言だった。
もし息を吹き返さなくても、自分の器だった身体に感謝をした方が良い、というのも伝え、彼女はアーサーの言葉を受け入れて、救急車に運ばれてゆく自分の身体へ付いて行った。
少しずついつもの喧騒を取り戻す、交差点。時間は流れてゆく。まるでなにもなかったように。
その場所に散り咲いた花びらは、いつか薄れていく記憶のように、アスファルトに同化して消えるのだろうと考えると、どこかやりきれなく、それでもそれは当たり前のことなのかと、アーサーは瞳の色を、瞼の裏に隠した。