NAMEROU~永遠(とき)の影法師
【第四話】
「名前?」
先に名乗りを済ませた僕の問いかけに、おじさんがおかしそうに髭面を撫でた。
「とうに捨てたよ、名前なんて……」
打ち寄せる波頭の崩れる先を遠く見つめておじさんは言った。きっと、僕みたいなヒヨッ子には想像もつかない、苦みばしったディープな過去を背負ってるんだろう、浜辺の岩に片足を掛けた少し猫背のおじさんの背中はニヒルなダンディズムを全身で体現していた、というのは何事も思い込みに囚われやすい僕のひいき目だろうか。
「そーだなー、」
やがて岩場から足を下ろし、くるりと振り向くとおじさんは言った。
「”マだ ダれのものでもない オじさん”、略して”マ 夕" オ”とでも呼んでくれたまえよ、」
言いながらおじさんは、髭面の口元にリアルなはにかみ笑いのようなものを浮かべた。幸か不幸か、僕にはおじさん萌え、の極意とやらはよくわからない。最近は何でもかんでもカワイー&ヤバイーの一択だからなぁ……、止血布を鼻に詰めたままぼんやり考え込んでいた僕を、正面からまじまじ覗き込んでおじさんが言った。
「――それで、君のことはシンちゃん、って呼んでいいかい?」
思えばあのとき、おじさんの漆黒のグラサンの闇に隠された心の細波に気付いていれば、或いは結末はまた違っていたのかもしれない。いまさらいくら思い返してみたところで、詮無いことではあるが。
「いいですよ、」
僕はおじさんの提案を快諾した。それくらい、おじさんとの間に奇妙な親和を覚えていた。さっきたまたま知り合ったとは思えないくらい、下手すると命(タマ)の獲り合いに発展していたとは到底想像もつかないほど、もうずっと長いこと親戚付き合いをしてきた本物の自分のおじさんであるかのように。
「おじさんを見てると僕、なぜか父上のことを思い出します」
「えっ?」
思わず漏れた僕の言葉に、おじさんが驚いたように僕を見た。僕はくしゃりと笑ってみせた。
「ヘンですよね、おじさんとは少しも似ていない人だったのに」
「そっ、そうか……」
――悪いこと思い出させちゃったな、おじさんは少し肩を落としたようにも見えた。俯いて、ただグラサンの位置を直しているのだと僕は思った。
+++++
【第五話】
「……実は今度、姉上が結婚するんです」
互いの自己紹介がひと段落ついたところで、僕はぽつりと切り出した。あのとき、おじさんは本当はもっと父上の話を聞きたがっていたのかもしれない、なのに僕は自分のことばかり、自分が聞いてもらいたいことばかりを優先していた。
「そうか、おめでたか……」
おじさんは腕組みするとしみじみ息を洩らした。若干の勘違い、あるいは事務的な言い間違いを犯しているものと考えられたが、僕は敢えて指摘することはしなかった。見て見ぬふり、それを優しさだと、思いやりなのだと都合良く変換したがる僕の優柔不断が、結果としておじさんを踏み返せぬより深い淵へと追いやっていたのかもしれない。振り返って何度我が身を悔いてみたところで、失われた過去は決して取り戻せるものではないが。
「それで相手は? どんな人なんだい?」
おじさんはまばゆいばかりにグラサンを輝かせて僕に訊ねた。まるで自分の娘がどこぞに嫁入りするかの如く、……いや、逆に他人事だからこそ、こうも無責任にキラキラしていられるのだろう、僕はそんなおじさんの人間臭さに好感を抱きこそすれ、決して軽蔑するものではない。
「それが……」
思わせぶりに、たっぷりと間を取って僕は答えた。
「相手はゴリラなんです、」
「ゴリラ?」
おじさんが呆気に取られた顔をした。――なんてね、ジョーダンですよと訂正を入れる間もなく、
「そーかー、相手はゴリラかー、」
おじさんは一人しきりに頷いて、すっかり合点してしまったらしかった。
「えっ? いやあの、」
思わぬ反応に調子を狂わされて僕は面食らった。
「――引き出物は、やっぱり特選バナナの詰め合わせなのかなぁ……?」
だったらえくあどる産は外せないよねー、おじさんは髭面の顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。僕は思わず噴き出しそうになるのを堪えた。
「ゴリラはゴリラでも、新撮版のキングコングみたいな人なんです、」
眼鏡の位置を直して、僕はおじさんに笑いかけた。自分では、うまく笑えているつもりだった。
+++++
【第六話】
「一途にナオミを想ったキングコングみたいに、繊細で優しくて力持ちで、……そりゃ、顔や身体つきはどっからどう見ても毛もじゃのゴリラですけど、中身は役所勤めのナイーブな好青年、てカンジなんです」
僕は姉上の結婚相手(”兄上”とはまだどうしても呼べなかった)のことを脳裏に思い浮かべながら話した。向かいで腕を組み直したおじさんが深く頷いた。
「そーゆーヤツはアレだな、きっといい父親になるよ、」
「そうですね」
――僕もそう思います、僕は小さく付け加えた。
わかっているのだ、あの胸板筋肉ゴリラ(仮)がいかつい野獣の見た目に反して(と言うと大概ゴリラくんたちに失礼だ、彼らは森の紳士なのに)どうしようもなくイイ奴だってことは。
いい加減、僕だっていつまでもわからずやの小さな子供じゃない、姉上が掴もうとしている幸せを誰より先に祝福してあげるべきなのに、ただもう一歩踏み出して素直になれないだけで、父上亡きあと、姉上を守るのは僕の勤めだと、僕なりに気を張って生きてきたつもりだ、なのにアイツが出てきた途端、オマエはもうお役御免だ、いらない子だと神様に鼻クソほじりながら最後通牒ちらつかされてるみたいで到底納得行かなくて、安穏とした居場所を失うことが怖くて、みっともなく駄々をこねているだけの愚かな子供なのだ。
(……。)
……何故だろう、頭ではずっとわかっているつもりだったことが、けれど受け入れられずにいたことが、ここに来て急に、まるで憑き物が取れたみたいにすとんと腑に落ちた。見知らぬ土地に吹く潮風と、偶然の同席者のおかげだろうか。
「……不思議です、」
頬を撫でる海風を肺いっぱいに吸い込んで僕は呟いた。
「ここでマ夕"オさんに話したら、胸がスーッと軽くなりました」
+++++
「名前?」
先に名乗りを済ませた僕の問いかけに、おじさんがおかしそうに髭面を撫でた。
「とうに捨てたよ、名前なんて……」
打ち寄せる波頭の崩れる先を遠く見つめておじさんは言った。きっと、僕みたいなヒヨッ子には想像もつかない、苦みばしったディープな過去を背負ってるんだろう、浜辺の岩に片足を掛けた少し猫背のおじさんの背中はニヒルなダンディズムを全身で体現していた、というのは何事も思い込みに囚われやすい僕のひいき目だろうか。
「そーだなー、」
やがて岩場から足を下ろし、くるりと振り向くとおじさんは言った。
「”マだ ダれのものでもない オじさん”、略して”マ 夕" オ”とでも呼んでくれたまえよ、」
言いながらおじさんは、髭面の口元にリアルなはにかみ笑いのようなものを浮かべた。幸か不幸か、僕にはおじさん萌え、の極意とやらはよくわからない。最近は何でもかんでもカワイー&ヤバイーの一択だからなぁ……、止血布を鼻に詰めたままぼんやり考え込んでいた僕を、正面からまじまじ覗き込んでおじさんが言った。
「――それで、君のことはシンちゃん、って呼んでいいかい?」
思えばあのとき、おじさんの漆黒のグラサンの闇に隠された心の細波に気付いていれば、或いは結末はまた違っていたのかもしれない。いまさらいくら思い返してみたところで、詮無いことではあるが。
「いいですよ、」
僕はおじさんの提案を快諾した。それくらい、おじさんとの間に奇妙な親和を覚えていた。さっきたまたま知り合ったとは思えないくらい、下手すると命(タマ)の獲り合いに発展していたとは到底想像もつかないほど、もうずっと長いこと親戚付き合いをしてきた本物の自分のおじさんであるかのように。
「おじさんを見てると僕、なぜか父上のことを思い出します」
「えっ?」
思わず漏れた僕の言葉に、おじさんが驚いたように僕を見た。僕はくしゃりと笑ってみせた。
「ヘンですよね、おじさんとは少しも似ていない人だったのに」
「そっ、そうか……」
――悪いこと思い出させちゃったな、おじさんは少し肩を落としたようにも見えた。俯いて、ただグラサンの位置を直しているのだと僕は思った。
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【第五話】
「……実は今度、姉上が結婚するんです」
互いの自己紹介がひと段落ついたところで、僕はぽつりと切り出した。あのとき、おじさんは本当はもっと父上の話を聞きたがっていたのかもしれない、なのに僕は自分のことばかり、自分が聞いてもらいたいことばかりを優先していた。
「そうか、おめでたか……」
おじさんは腕組みするとしみじみ息を洩らした。若干の勘違い、あるいは事務的な言い間違いを犯しているものと考えられたが、僕は敢えて指摘することはしなかった。見て見ぬふり、それを優しさだと、思いやりなのだと都合良く変換したがる僕の優柔不断が、結果としておじさんを踏み返せぬより深い淵へと追いやっていたのかもしれない。振り返って何度我が身を悔いてみたところで、失われた過去は決して取り戻せるものではないが。
「それで相手は? どんな人なんだい?」
おじさんはまばゆいばかりにグラサンを輝かせて僕に訊ねた。まるで自分の娘がどこぞに嫁入りするかの如く、……いや、逆に他人事だからこそ、こうも無責任にキラキラしていられるのだろう、僕はそんなおじさんの人間臭さに好感を抱きこそすれ、決して軽蔑するものではない。
「それが……」
思わせぶりに、たっぷりと間を取って僕は答えた。
「相手はゴリラなんです、」
「ゴリラ?」
おじさんが呆気に取られた顔をした。――なんてね、ジョーダンですよと訂正を入れる間もなく、
「そーかー、相手はゴリラかー、」
おじさんは一人しきりに頷いて、すっかり合点してしまったらしかった。
「えっ? いやあの、」
思わぬ反応に調子を狂わされて僕は面食らった。
「――引き出物は、やっぱり特選バナナの詰め合わせなのかなぁ……?」
だったらえくあどる産は外せないよねー、おじさんは髭面の顎に手を当てて真剣に考え込んでいた。僕は思わず噴き出しそうになるのを堪えた。
「ゴリラはゴリラでも、新撮版のキングコングみたいな人なんです、」
眼鏡の位置を直して、僕はおじさんに笑いかけた。自分では、うまく笑えているつもりだった。
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【第六話】
「一途にナオミを想ったキングコングみたいに、繊細で優しくて力持ちで、……そりゃ、顔や身体つきはどっからどう見ても毛もじゃのゴリラですけど、中身は役所勤めのナイーブな好青年、てカンジなんです」
僕は姉上の結婚相手(”兄上”とはまだどうしても呼べなかった)のことを脳裏に思い浮かべながら話した。向かいで腕を組み直したおじさんが深く頷いた。
「そーゆーヤツはアレだな、きっといい父親になるよ、」
「そうですね」
――僕もそう思います、僕は小さく付け加えた。
わかっているのだ、あの胸板筋肉ゴリラ(仮)がいかつい野獣の見た目に反して(と言うと大概ゴリラくんたちに失礼だ、彼らは森の紳士なのに)どうしようもなくイイ奴だってことは。
いい加減、僕だっていつまでもわからずやの小さな子供じゃない、姉上が掴もうとしている幸せを誰より先に祝福してあげるべきなのに、ただもう一歩踏み出して素直になれないだけで、父上亡きあと、姉上を守るのは僕の勤めだと、僕なりに気を張って生きてきたつもりだ、なのにアイツが出てきた途端、オマエはもうお役御免だ、いらない子だと神様に鼻クソほじりながら最後通牒ちらつかされてるみたいで到底納得行かなくて、安穏とした居場所を失うことが怖くて、みっともなく駄々をこねているだけの愚かな子供なのだ。
(……。)
……何故だろう、頭ではずっとわかっているつもりだったことが、けれど受け入れられずにいたことが、ここに来て急に、まるで憑き物が取れたみたいにすとんと腑に落ちた。見知らぬ土地に吹く潮風と、偶然の同席者のおかげだろうか。
「……不思議です、」
頬を撫でる海風を肺いっぱいに吸い込んで僕は呟いた。
「ここでマ夕"オさんに話したら、胸がスーッと軽くなりました」
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作品名:NAMEROU~永遠(とき)の影法師 作家名:みっふー♪