好奇心は魂を残した
闇より深い闇。黒より深い黒。この世界は一体どこまで続くのだろう。そう思っていた時も確かにあった。既にそれは知ることが出来ぬと悟り、深い夜に似た場所では手に持った灯火が唯一の灯り。
光さえも吸収する場所で、帝人は小さく膝を抱えて蹲る。持っていた行燈は傍に置いた。オレンジ色の光だけが僅かに辺りを照らす。
ぼんやりとどこともしれぬ空間を見ていれば、一瞬だけ闇が揺らぐ。
「帝人くん」
「……いざやさん」
深い闇を割って表れた、黒を纏う男。顔を上げずに視線だけ向けた。爛々と輝く赤い瞳が熱を帯びている。
「ねぇ」
向けられる視線を感じながら、目を閉じた。そうすれば真に世界は闇に包まれる。ああ、それでも間近にある熱は感じることに自嘲を零した。こんな身でもまだ感じることができるのかと。
「今年も行ったんだね」
「…………」
「もういいかげん諦めたら? そんなことばっかりしてなんになるのさ。結局君は変わらないのに」
「……っ、あなたがっ!」
他ならぬ彼がそう言うのか。閉じていた瞼を怒りにまかせて押し上げれば、思ったよりもずっと間近に彼の顔がある。整った、白皙の、とはこういうことを言うのだろうかなどと考えた。
それでも現実逃避は一瞬で、すぐさま怒りを思い出す。だが、それも一瞬で消えた。今更言ってもどうにもならないことだと知っているからだ。どう足掻いても過去は変えられない。
「そうだね、今の君があるのは俺のせいでもあるね。でもその最後の選択はほかならぬ君自身でしたことだよね」
「……分かってますよ。だからそう人の古傷、掘り返さないでくれますか」
「いやだな、まだ慣れないの? もう結構な年月が経っているのに」
そっと手を伸ばされる。帽子を取られ、短い髪の毛が触れられる感触。ああ、冷たい。撫でる掌を感じながら思い、目を細めた。
もう、どのくらいになるのか帝人自身も忘れた。忘れてしまった。この夜よりも深く、闇よりも暗い場所を彷徨うようになってどれくらいか、なんて。たまに開く光の先で人に出会う事もあるけれど、それだけに時間の感覚が自分の中から失せていく。
永劫の時間は退屈と同義だと知る。人は退屈で死ねるとはよく言ったものだと思う。あのころは――ずっと遠い昔もそう思っていたけれど、実際は違ったと体感してみて感じたことを思い出した。それさえも遠い過去にして近い最近。
ずうっとずうっと遠い昔、帝人は臨也と賭けをした。勝者は帝人。対価として臨也から一つの約束を受け取った。故に、帝人は今ここに居る。
「寂しくないの?」
「淋しいですよ。だから逢いに行くんです」
「君を唆したやつのところに?」
「約束でしたから」
ずっと、昔に。幼馴染と約束した。楽しかったハロウィンの祭り。また逢おうなと。一緒に遊ぼう、巡ろう、と。それを今も帝人は律儀に守り続けている。
いつしか、光が灯る日に。この闇から続く先に出れる場所に行くことが習慣になっていた。
ぴたり、と撫でる手が止まる。視線を上げれば不機嫌そうに相貌を歪める臨也が見える。
「君は楽しいけどね、いつまで続くのか流石の俺も呆れてきたよ。よくそこまで自虐的なことができるね」
「いいじゃないですか。なんだってありですよあの日なら」
「ハロウィンね。唯一君がここから出れる日だもんね。――狭間から、ね」
ニヤリと猫のような笑みを浮かべる臨也を、帝人は諦めを湛えながら見返す。満足だと笑う男に何故か憐れみを覚えた。
狭間と臨也は言う。どこまで行っても闇しかない、この場所。彷徨う帝人を憐れんだあるひとが一つの灯火をくれた。それが傍らにあるこの灯り。
いつから彷徨っているのか、いつまで彷徨えばいいのか、それすら分からない。考えたところで答えは出ないのだから、帝人はいつしか考えることを止めた。
流れに流されるまま、理のように一年に一度だけ外に出て、またこの暗闇に戻る。
暗闇だからとて出会う人がいないわけではない。それこそ臨也のように話しかけてくる相手もいるし、時折迷い込んでくる相手もいる。帝人が彼らと違うのは戻る場所があるか否かということだけだ。そしてもうそれを嘆くことはやめてしまった。
「ねえ。帝人くん」
「なんですか、臨也さん」
「君はさ。あの時賭けに勝たなかったらとか考えなかった?」
「……珍しいですね、臨也さんがそんなこと言うなんて」
もしもは嫌いじゃなかったんですか、と返せば気まぐれだよ、と応える。往々にして彼はこんな性格だったなと思い返すのは早かった。
「思いましたよ。なんども、思いました」
恨まない日はなかった。呪わない日はなかった。だがそれももう昔の事だ。恨むことも呪う事も嘆くことすらも帝人はやめた。
「でも、なってしまったものは仕方がありません」
足掻いても今が変えられないのなら受け入れるだけだと告げた帝人は、ぽすりと臨也の肩に頭を埋めた。頬に触れる布の感触は柔らかなくせに、その下から熱は伝わらない。
「――例え、あなたがそれを仕組んでいたとしても、ね」
ねぇ、あくまさん。
呟いた声に、気付いてたんだと嬉しそうに臨也は笑った。
「いつからとか野暮なことは訊かないからね」
「ええ。そんなもの無駄ですからね」
くすりと互いに笑う。そう、時間など二人にとっては大した問題ではない。ましてや、特に気にするような事柄でもないのだ。
そんなものを気にしても何も始まらず、何も終わらない。時間はなにも解決してくれない。身をもって知っている二人は互いに頷く。
「大事なのは、知った上での結論が先の言葉ってことだ」
耳触りのよい声が歌うように告げる。伸ばす手を帝人は拒みはしなかった。
至近距離で緋の灯火がゆらゆらと二つ揺れている。楽しそうに、嬉しそうに。向ける視線に嘲りが無いのが少しだけ不思議に思うが些細なことだ。
ふわりと闇が蠢く。体を抱きしめられている。臨也だろう。理解するが帝人はどうしようとも思わない。むしろ心地よいとばかりに深く腕に体を預ける。目を閉じればなにも見えず、あれほど鮮明だった緋色さえも遮られる。
「いいじゃない。天からも地からも見放されても。君は何処にもいけないけれど此処にいることができるんだから、さ」
音が、声だけが届く中で、ぎゅっと抱きしめられた腕に力が籠る。
「ずぅっと一緒に居てあげる、君が消えるその日まで。だからさ、君も俺を楽しませてよ」
そっと撫でてくる手は冷たく、温度が無い。だが彼が触れる自分もまた温度と言うものが消えているのだろうと帝人は思う。楽しませる? 何をと問いたいが、止めた。どうせ彼の言う事など全て理解できるわけがない。遥か昔そうだったように。
ならば自分もまた楽しんでもいいだろう。年に一度くらいの気休めが他にも出来るというのなら拒む必要はない。こちらもこちらで利用させてもらおうと笑う。そのくらいは……そのくらいには、長い付き合いで不承不承ながらも派生した好意もある。
ああ、だから天に拒まれたのかと今更のように思った。悪魔に興味を抱くなど、確かに拒まれても仕方がない。ならば望むべくではなく、在るべくして成ったのだ。
「……いいですよ。貴方が、僕の退屈を紛らわせてくれるなら」