すべてをゆらして
家人のいない家はひっそりとしていた。栄口は自分の部屋までの明かりを順々につけ、水谷はその動作をなぜかきれいだなと思った。薄暗い部屋の中のスイッチに伸ばされる腕と、灯った明かりを眩しげに見る栄口の横顔は美しかった。
「コンビニで何買ったの?」
ローテーブルにビニール袋を置いてどっかり腰を下ろした水谷へ栄口はジャケットをハンガーに掛けながら聞いた。水谷はガサガサとその袋から二つの包みを取り出し、シュークリームだよー、とテーブルの上に並べて見せた。
「二個も食べんの?」
「ううん、一つは栄口のだよ」
「え、俺は別にいいよ」
栄口は水谷の横に座って、さっきマック食っちゃってさ、と付け足した。
「同中の人たちと?」
「そうそう」
「何してた?」
「お前といるときと変わんないこと」
「そーっすかー!」
声音から判断できるくらい水谷の機嫌が悪くなったのを感じ取り、栄口はそんな水谷のことを分かり易い奴だなぁと思った。
自分から「つきあおうか」と言ったけれど、そういう関係の二人が一歩一歩進めていくはずの行為はしなかった。道を踏み外すつもりは甚だ無い。
「どんなこと話したんだよぉ」
「中学の話だから水谷に言ってもわかんないだろ」
「えーヤダー、きーにーなーるー」
水谷がありがちに、女子がおねだりするようなポーズで身体をくねらせたので、栄口は軽く顔を引きつらせて渋々答えた。
「だから、誰が誰と付き合ったとか、誰が誰と別れたとか、そういう……」
「ほかにもなんかあるでしょー」
「あとはガーデニングがー……」
「がーでにんぐ?」
そう言った途端に、マックでの自分のありえない妄想が脳裏をよぎった。緑の中で二人笑いながら草木の世話をするなんていうそれは、いやらしい妄想よりよっぽど健全じゃない気がする。
「……シュークリーム食べないの?」
「あ、そうだったそうだった」
とっさに話を逸らしたら、水谷はあっさりとそれに応じた。上機嫌で袋を開け、こぶし大のシュークリームをふたくちで食べてしまった。そのがっついた様子を見ていた栄口はもう一つ食べたらと水谷に言った。
「え! いいの?」
「いいもなにも水谷が買ってきたんだろ」
俺いま結構腹減っててさぁ。へらりと笑いながら二つ目の袋へ手が伸びる。
「ていうかそんな気つかわなくていいって」
「んー?」
「シュークリームとかさ、別にそんなの……」
「だって俺が食べてたら栄口も食べたくなるかもしんないじゃん」
水谷の変な気遣いは時々思いきり自然だ。
はみ出たクリームが頬を汚している。栄口はいつも弟にするように食べかすをぬぐおうとした手を引っ込めて、少し変な気持ちになった。
言葉を返さない栄口にどうしたものかと顔を覗き込んだ水谷は、栄口の黒目がわずかにギラついていて、少したじろいだ。
変わった空気の流れから相手がひるんだことを感じたら、妙にムラっとくる自分がいた。水谷は栄口から目を逸らしている。
(なんだかすごく、できるならキスがしたい)
栄口は水谷のあごに軽く指を触れたあと、自然な動作で自分の唇を寄せた。柔らかい感触とは反対に、水谷の身体はひどく緊張し、目もきつく閉じているのがなんだかまぬけだった。キスって意外と簡単なんだな、栄口がぼんやり実感しつつあると同時に、どこかへ放り投げていた正気も徐々に戻ってきた。
(ていうか何で俺水谷と……!)
水谷を突き飛ばし触れていた唇を離したら、自分のしたことがいかにとんでもないことだったかがドクドクと頭へ上ってきた。
「さかえぐ……」
「いや、まじ、俺何やって、あー!!」
「え、ちょっと?」
「頭冷やしてくる」
一気にまくし立ててドアが開き、閉まった。
一人取り残された水谷は、右手に持ったまだ食べかけのシュークリームと一緒に途方に暮れた。あんなに取り乱さなくてもいいじゃん、と思った。俺たちはつきあってるんだし、俺もずっとチューしたかったし。
(栄口は俺とどういうふうにつきあっているつもりだったのかな)
栄口が出て行ってしまった部屋の中で、特にすることもなかった水谷はとりあえず食べかけのシュークリームを口に含んだ。のどが渇いているせいか、妙に甘さが口の中にひっついた。
勢いよく閉められたドアは反動で少し隙間が明き、わずかに廊下からの光が注いでいた。いつ栄口は戻ってくるのだろう。シュークリームは食べ終えてしまって手持ちぶさただった。それよりも、栄口が用意してくるであろう答えや理由が気になって仕方なかった。