すべてをゆらして
背中伝いに妙に早い心臓の音が聞こえ、肌に張り付く水谷の手がじわりと皮膚を這う。お互い何も言えずに黙り込んでいたら、薄っぺらな布越しに腰へ当てられた熱がゆっくりと動いた。
「……動くなよ」
やっと発した一言に「ごめんつい本能で」と恥らいながら返す水谷に、栄口は身の危険を感じた。このままでは確実にやられてしまう。
「あのさ、服着たいんだけど」
「え、なんで?」
「プレステするんだろ? お前の部屋で」
抱きとめていた腕の感触がぎゅっと強くなる。
「おれさかえぐちとせっくすしたい」
耳にかかる舌足らずな声に栄口の頭の中にひときわ激しく警報が鳴り響く。
水谷はとうとう越えてしまった。二人で曖昧にしてきたラインを自分ではっきり引き直し、夏に浮かされあちら側へ。
力任せに腕を払うと、ふつふつと沸きあがる衝動に涙腺がうるみがちな水谷と目が合う。栄口はその様子をあえて見なかったことにして床のTシャツを拾い上げた。
「……さかえぐちぃ」
貸してくれた着替えのショートパンツに足を通そうとしたら、腹に手を回され背中に額を擦り付けてくる。
(犬かお前は)
腰に纏わりつく相手にかまわず脱衣所を出たけれど、水谷の部屋以外に留まる所はなかった。勝手知ったる他人の家、ゲーム機のスイッチを入れるといつもの同じ画面が浮かび上がり思わずほっとしてしまう。
(セックスってそんな、誰と誰が、ていうかオレと水谷が)
混乱する気持ちを鎮めたくて栄口はゲームに集中しようとした。水谷はまだべったりと背中にくっついている。
(そういう予感はしてたよ、でもわざと考えないようにしてたのに)
必死に気をそらそうとする栄口のショートパンツの中へ水谷の手がするりと入ったら、握られたコントローラーが派手な音を立て床に落ちた。
「お、おまえ、どこ触ってんだよ」
「……だめ?」
「なにが」
「えっ、や、やらしてくんないの?」
どもる水谷はいつもの二割り増し情けない顔をしている。
男同士でそれはありえないだろう、とは言えなかった。栄口と水谷はどちらも男なのに恋人同士で、何度もキスをしていた。ふとしたときに触れ合うお互いの体温がなんとなく心地良くて、でもきっとこの延長線上にあるものはそれだということを薄々感じ取ってはいた。感じ取ってはいたけれど、素直には頷けない。
言い淀む栄口が振り返ると、水谷はうつむきながらも上目遣いでこちらを見ていた。普段よりいくらか伏せ目がちなのに、瞳に着々と熱がこもっている。水谷のショートパンツと思ったそれは下着で、しかも嫌な感じに膨らんでいたので思わず目をそらした。栄口は今のところ水谷の本気に応える勇気を持ち合わせてはいなかった。
「だってオレ立ってないし」
微妙な空気が漂う部屋に響いたその言葉がきっかけで、ついに水谷は栄口を押し倒してしまった。がむしゃらにTシャツを捲り上げる右手に全力で抗う。
「バカ、やめろって!」
「え、いいじゃん」
「こんなことしたら元に戻れなくなっちゃうだろ?」
「元って?」
問い直されて気がつく、俺が戻ろうとしているところは一体どこなんだろうか。キスをする前、告白される前、仲良くなる前、入部する前。ぐるぐる考えてみて分かったのは、自分たちはとっくの昔に戻れないところまで来てしまったということだった。
水谷はその一瞬の隙を突き、下着ごと栄口のショートパンツを下ろし、確かにまだ立ち上がっていないそれを口に含んだ。
「うあっ」
突然の感覚に思わず声が出た。しまった、と下腹部に目を向けた栄口は、そこで想像したこともない卑猥な水谷の姿を見た。茶色の髪の間から咥えこんだ口元が上下にゆるゆる動いている。頭を押しのけようとした手は宙を切り、無駄な努力をした分、水谷の暖かい口内で翻弄されるそこにピリピリと熱が集まってくる。
一瞬こちらに顔を上げる飢えた目と視線がかちあう。水谷はにやりと笑い、一層きつく吸い上げると栄口の背筋が小さく仰け反った。
「んっ、うう」
もうやめて欲しい。結局手は堪えきれない声を抑えるために口に当て、その代わりの反抗手段として伸ばした足は、水谷の肩に乗せられ全く力が入らない。
自分の意思とは裏腹に、快感に正直なそれが十分な硬さを持つのにそれほど時間はかからなかった。ふやけた唇が名残惜しそうにもう一度口付けた感触を顔をしかめて耐えた。
「こんくらいでどうだろ」
「……み、みずたにさぁ、こういうのどこで覚えてくるの?」
「えー、そんなのどうだっていいじゃん」
あやふやな笑顔でごまかされてしまったのが癪に障る。ただでさえ栄口はあんなことをしてきた水谷と、その思惑通りになってしまった自分にいらいらしていた。
「誰か他の人としたことあるの?」
「ないよ」
挑発気味の疑問に不機嫌な声が返ってくる。水谷のほてった顔がさらに怒りで赤くなった。
「なんで栄口はやる気失くすようなことばっか言うわけ?わざと?」
「俺は栄口としたいの!栄口だからしたいの!」
「もう知らない!」
人のものをこれだけおっ立てておいて「もう知らない」はないんじゃないだろうか。そっぽを向いてしまった水谷の背中が怒りで震えている。あの配慮の足りないひとことがどれだけ水谷を傷つけてしまっただろう。
(オレだって水谷としてみたいよ、でもいろいろ怖い)
どちらもはじめてなら怖いのは自分も水谷も一緒なのだ。けれど水谷はその精一杯で口でしてくれたのかと思うと、その気持ちに応えられないことがひどくちっぽけに思えてくるのだった。
カーペットの上で強く握り締められたその手に触れると驚いたように水谷が振り向いた。あんな酷いことを言ってしまった手前、怒っていると思ったらぼろぼろ泣いていた。
もうそこで何だか余計な力が抜けてしまった。
栄口は小さく一回息を吐いた後、涙が溜まる水谷の薄い瞼にキスをした。
「……誘わないでよ、さかえぐちのばか」
「ごめん、そういうつもりだった」
「どういうつもりだっつーの」
だから、そういうつもり。栄口の声はなぜか耳元でして、それからゆっくりと舌が這う。耳をふちどり、産毛がざわりと音を立てた。最後に耳たぶを甘く噛んだあと、やけに色っぽい吐息が聞こえ思わず身が縮まる。
「……栄口くんこそこーいうのどこで覚えてくるんですかー」
「お前の真似だよ」
「じゃあさっきしたことも真似してくれんの?」
「さぁ? 水谷次第なんじゃない?」
水谷の乾いた笑いが部屋に響き、栄口もよくわからないままそれにつられた。二人の笑い声が見計らったように止むと、そっと唇を合わせた。
「ご期待に添えるかわかりませんが」
「ははは、なにかしこまってんのー?」
交わす冗談とは裏腹に、繋いだお互いの手がおかしなくらい熱く、震えていた。確信的な目配せの後、覆い被さってきた水谷に身を委ねることは以外にも簡単だった。