すべてをゆらして
「自転車がない」
みんなにバイバイなんつって手を振って、栄口と薄暗い自転車置き場までやってくると、朝確かにそこに置いたはずの自転車がこつぜんとなくなっていた。
「よく見てみたのー?」
水谷の自転車は以前姉が使っていたもので、年季の入った赤いママチャリだった。それは新品の多い周りの自転車から浮いていて、こういうふうにたくさんの自転車を置いている場所では見つけやすく、また水谷自身もその自転車のそういうところが気に入っていた。
「う……ない……」
「確かにないね」
自転車置き場の蛍光灯がジリジリと点滅し二人に早く帰れと急かす。練習が終わってから大分経っていた。大体の生徒はもう帰宅している時間帯なので置かれている自転車の数はまばらだったが、二人であらかた探し回ってもそれらしき自転車は見当たらなかった。
「カギはかけたんだよね?」
「うん。つーかカギ持ってるし」
ズボンの後ろポケットから小さな金属片を取り出すと、栄口はその形状をまじまじと見つめた。
「水谷のチャリ古いやつだったろ」
「そーだけど」
「そういうチャリって足で鍵穴蹴ったりすると簡単に壊れちゃうんだよね」
じゃあなんだ、心ない誰かが俺のチャリのカギを壊して盗んでいったっぽい? と栄口に問うと、多分そうだと思うけど…なんて口をへの字に曲げながら言いにくそうに水谷に告げた。
この一見平和そうな学校のどこにそんな悪いやつがいるんだ。いやいやていうか明日から俺はどうやって学校まで来て帰ればいいのさ! 水谷は突然自分に降りかかった災難に打ちひしがれた。
「あーどうしたらいいんだろー」
「新しいの買ってもらうしかないんじゃないかな」
「結構あのチャリ気に入ってたんだけどなぁ」
「ああ、なんか雰囲気のあるチャリだったね」
栄口が軽く目を細め笑った。そういう栄口を見るたび、水谷はたまらない気持ちになることに気づいたのはもうだいぶ前。誰に打ち明けることなく墓場まで持っていくと決めたのはつい最近。
しかし栄口という人物は、水谷のそんな決心の壁をたやすく溶かしてしまう。
(ちがう、栄口のせいにしちゃいけない)
俺の気持ちが弱いのよね、と水谷は思う。何度か考えてみたけれど、おそらく栄口にとって自分は同じ部の仲間で、友人で、それ以上なにものでもないのだった。もしかすれば親友とかそういうトクベツな位置にいるのかもしれなかったが、水谷が求めているような関係では、間違いなく、なかった。そんな栄口に自分の気持ちを吐露しても、空振り三振、もしくはデットボール。おそろしい。
「……聞いてる水谷?」
「えっ、な、何?」
水谷は時々今みたいにぼーっとしているときがあって、しかもそういう時はたいてい人の話など耳に入っていないことを栄口はここ最近の付き合いから知っていた。繰り返し同じ言葉をしゃべるのにももう慣れてしまっていた。
「だから、二人乗りして帰ろうって言ってるの」
そのほうがいくらか早いだろーという栄口のほがらかな声が水谷の頭の中にこだまする。
「……栄口体重何キロ?」
「四月の健康診断で五十四キロ」
「じゃあ俺のほうが重いから俺漕ぐよ」
水谷は極力普通にそう答えた。声が上ずってしまわないか不安だった。二人分の荷物を前かごに積み込んでハンドルを握る。乗ったー? と後ろに声をかけ、乗ったよーという返事を確認したあと、ぐらつく自転車をゆっくりと漕ぎ出す。学校の前の緩やかな坂を下るころにはもうコツをつかんだ。二人分の重みといってもそうたいしたことなく、水谷が漕ぐペースに合わせて、風が街灯がすれ違う車が、ぐんぐん後ろに流れていく。
このまま栄口を後ろに乗せたままどこかに行けたらいいのに。いやしかしどこに行くっていうのだろう。どこかに着いたところで栄口が、女の子に持つ感情のように自分のことを好いてくれるはずはないのだった。
(栄口が俺のことを好きになってくれるところに行ければいいのになぁ)
そんなの魔法使いでもいるところじゃなきゃ無理だ。そしてそんなことをもんもんと考えている自分は相当末期だ、と水谷は思った。
「み、水谷! ちょっとタンマ!」
突如後ろからした声に驚いてブレーキをかけると、反動で背に栄口の頭がめり込むようにぶつかった。
「あ、ごめん」
「いや、それはいいんだけど。なんか後輪が……」
道脇に立てて自転車の後輪を確認してみると、細いタイヤは簡単に指で押し潰れるほど弾力がなくなっていた。
「パンクしちゃったかもしれない」
「ぽいよなぁ」
心配げに後輪を除きこんでいた二人が立ち上がると同時に、自転車が反対方向へ派手な音を立てて倒れた。車輪が回り、アスファルトにカラカラと無常な反響音をたてた。
踏んだり蹴ったりだなぁ。そう栄口は笑って、カゴから地面へと無残に落ちた荷物を拾った。その仕草に水谷はまた胸が締め付けられたが、栄口から渡された自分の荷物を受け取って、ごめんな、と言った。
「なんで水谷が謝るんだよ」
隣を歩く栄口の自転車のハンドルが嫌な感じに曲がっていたので水谷はぎょっとした。
「だって俺のせいで自転車壊しちゃったみたいじゃん……」
「うわぁ、いつになく反省してるのな」
なにそれ、いつも俺が反省しないみたいに言わないでよ、と水谷が口を尖らせて反論すると、いつもしてるように見えないだもん、と栄口は言って、また笑った。
(ほらたとえば俺が栄口を好きだなんて言っちゃったら、こんなやりとりも多分一生できない)
かといって、俺か栄口がもし女の子だったら……というくだらない妄想はあまりにも報われないので考えないことに水谷はしている。
(神様はひどいぜ)
結局のところはそういう結論に落ちついた。
「俺んちで空気入れていけば乗れるんじゃないの?」
「うーん、ハンドルが曲がってるからそれも危なくね? ま、押して帰るよ」
水谷の申し出はさりげなく却下された。
少し先の踏切では規則正しく鳴り響く警音機が電車の到来を告げていた。遮断機が黄色と黒の棒をゆっくりと降ろして道を塞ぐ。
ああこの遮断機が……水谷はまたいつものパターンのろくでもないことを考えた。最近の自分はこればっかりだ。寝ても覚めても栄口がどうだの、栄口がああだの。俺一人考えたからってどうなるわけでもないのに、懲りずにただただ。
水谷の中でぐるぐると渦巻く感情をよそに、栄口はオープン戦からの巨人の不振について語っていた。
「俺はさぁ、どうも投手がいけないと思うんだよねー」
「栄口」
「水谷はどう思う?」
伸びる線路が小刻みに震えながら小さな音を立て、その少し奥には電車がすぐ近くまで来ているのが見えた。繰り返す耳障りな音が自分の鼓動と連動する。
「俺は」
向こうからやって来る電車のライトに照らされ、水谷はあまりの眩しさに目を細め、その狭い視界で栄口を見た。
「栄口のことが好きなんだけど」
同時に音と風の塊が猛スピードで踏み切りに押し込まれ、水谷の前髪を後ろへと流した。遮断機が繰り返す赤い光の点滅と、流れる電車の窓から漏れた光が交互に栄口の顔を染めてゆく。栄口はその目をくっきりと開き、水谷を見ていた。