すべてをゆらして
「うるせーなー! もういい加減にしろ!」
阿部がとうとう痺れを切らして水谷を怒鳴りつける。その勢いで、阿部は、何なんだよ一体? ハラ痛えのか? ハラ減ってんのか? とまくし立てた。
阿部に思い当たる俺の悩みってその程度なんだな……と予想できて悲しくなったが、「栄口に好きだって言ったら逃げられちゃった」とは絶対言えなかった。なので、つじつまをあわせて適当に自転車が盗まれたことを告げると、自転車程度でメソメソするんじゃねぇよと露骨に嫌な顔をした。
「お前のチャリってどういうのだっけ」
「えーと、あのー、赤くて、古いやつなんだけど……」
「ん? そういうの俺今日見たな」
「え! どこ!?」
「自転車置き場に決まってるだろ」
次の休み時間、阿部に教えられた通り自転車置き場に行ってみると、確かに水谷のものである自転車はあった。鍵はかかっていなかった。鍵穴は栄口が指摘したように壊されていたけれど施錠はできるようだったので、水谷はポケットに入れっぱなしだったカギを一応差し込んで教室へと戻った。
「あっただろ?」
「うん、あったあった」
「だったらもっとうれしそうな顔しろよな」
「わぁい!」
気色悪いと阿部がぼやいて、花井がそのやりとりを笑いながら事の顛末を阿部に聞いた。だからこいつが朝からすげーウダウダしててさぁ……と説明する阿部の声が聞こえる。
鬱々とした思いを抱え、そのままへたりと机に突っ伏すと、後ろから「部活でもその調子だったらただじゃおかねーからな」と釘を刺された。阿部は相変わらず容赦ない。
(自転車は戻ってきたけれど、栄口とは元には戻れないんだよねぇ……)
そんな調子で購買に行っても、あの弱肉強食の人ごみの中でろくなものなど買えるはずもなく、水谷は食べたかったコロッケパンをタッチの差で買い逃してしまった。売れ残りの菓子パン二つと牛乳を抱え、とぼとぼ教室に戻ってくると、自分の席に栄口が座り、既に昼食を取っている阿部や花井と仲良さげに話していた。
「あ、水谷」
そのナチュラルさに水谷は軽くめまいを覚えた。自分が昨日一晩中、そして今までずっと考えていたモヤモヤを青空へ場外ホームランしてしまうくらいの破壊力があった。
「昼飯まだなら俺と外出て食わない?」
夢かこれは。夢ならどっちが夢なんだ。水谷は促されるままに栄口に連れられ、靴を外履きに履き替えた。
「購買に何買いに行ってたの?」
「……コロッケパン」
コロッケパンってさー、パンも炭水化物なのにジャガイモも炭水化物じゃん、俺はあんまり好きじゃないんだよねー、あ、でもヤキソバパンは別だなー。いつもの栄口のいつもの口調が右の耳から入って左の耳から出て行く。
そうしてグラウンドの前の階段状に続く斜面で腰を下ろした。一番下の段に女子生徒が三人、談笑しながら昼食を取り、グラウンドではもう食べ終えた男子生徒が数名サッカーボールを蹴って遊んでいるのが見えた。
春を感じさせるぽかぽかとした陽の光があたりを照らし、こんな日は外で食べるのも悪くないなぁと水谷が言うと、栄口はお前絶対次の時間寝るだろー、阿部が言ってた、と栄口が返す。昨日の出来事が嘘のような、いつもどおりの二人の会話だった。
水谷がやけに甘さが口に残るパンを食べ終わり、もうひとつのこれまた甘そうな菓子パンへ手を伸ばしたときだった。
「水谷さぁ、昨日のアレってどういう意味?」
水谷のパンの袋を開ける動作が不自然に止まる。
栄口は今になって言うんじゃなかったなぁと気づいた。昨日という日をなかったことにするという選択肢もあったのだ。
「そ、そのままだけど……」
どもる水谷に栄口は、いや、だからさぁ、好きにもいろんな意味があるじゃん。友達として好きとか、なんて助け舟を出したつもりだったが、水谷は半開きのパンの袋を持ったまま目に涙をためていたので、それはあまり功を成さなかった。
水谷はパンの袋をうつろに開きながら、栄口が今思ってる、最悪だと思ってくれていいよ……と投げやりに話した。
「じゃあ水谷ってホモなの?」
「ホモなのかなー……」
俺に聞くんじゃない……と栄口は心の中で独り言をつぶやいた。
「俺、ぜんぜん水谷のことそういうふうに思ってないの、わかってるよな」
「うん、悲しいくらい」
パンを口に突っ込んだまま水谷の目線は遠くを見ている。栄口が自分のことをどう思っているかなんてわかりきっていた。多分あの場所で電車が来なかったら言っていなかっただろう。栄口の自転車が壊れなければ言っていなかっただろう。自分の自転車が盗まれなければ、栄口と一緒に帰らなければ、野球部に入っていなければ、この高校に入学していなければ……
「だって俺、栄口で抜いちゃうくらいなんだぜ、もうだいぶ……」
だ、だよなぁ、と初めて栄口が動揺したような声を上げた。怖がらせるつもりはなかったので言いすぎたかなと少し反省したが、それは事実だった。
栄口は箸でから揚げをつまんだまま硬直してしまった。おそらくさっき水谷が発した言葉を心の中で反芻しているのだろう。ああ、もう本当にどうにもならない。しんどい。好きになるんじゃなかった。
「でも、もうなんか、いいや」
「口もきいてもらえないと思ってたし」
しばらく二人は無言でもぐもぐと各々の昼食を食べていたが、一息ついて、水谷がズボンに落としたパンくずを払いながら淡々と言った。
「前のまま、友達でいようよ」
箸をしまおうとしていた栄口はその提案に面食らい、箸入れに人指し指を挟んだ。隣に座る水谷を慌てて見ると、水谷は相変わらずしまりのない顔をしていることに変わりはなかったが、妙に悟りきった表情をしていた。
「でも、水谷俺のこと好きなんだろ?」
「そうだよ、多分俺に誰か好きな人ができるとか、栄口のことを好きになったのを忘れるまで好きだよ」
「それ、ちょっとつらくないか?」
「へ?」
何のことだかわからない、そんな感じに水谷は首をかしげた。栄口はそんな水谷を心配げに思い、言葉を続ける。
「友達だぞ? よく考えろよ、そんな中途半端なのってかえってしんどくないか?」
「そんなの栄口を好きになってからずーっとそーだからもう慣れちゃったよー」
あたたかな風があははと笑う水谷をざぁっと攫い、より一層その笑顔を寂しげにする。水谷のその態度が空元気ということは栄口にもわかっていた。しかし、好きでもない自分に何ができる? これ以上水谷を優しくすることはかえって水谷を傷つけてしまう気がした。
「そっか」
「うん」
泣き出す寸前の水谷がそう頷くものだから、俺がホモで水谷のことをちょっといいなと思っていたのならこういうことにはならなかったのだろうか、と栄口は考えたのだけれど、それはもっとありえなかった。
鳴り響いた予鈴が二人のめぐる想いに一応の終止符を打つ。
「あ、やべ、次の生物小テストだった」
「うわ、ごめん時間とらせて」
じゃあまた部活で、と急ぎながら手を振った後、栄口は思う。
(無意識に俺は残酷だし、無力なんだなぁ)