コタツとみかん
テレビからはよく分からないバラエティ番組の笑い声が響き、ときたま外を通り過ぎる自動車のクラクションが音高く鳴る。背後からは水を流す音や火をくべる音に混じって、キッチンの主の鼻歌も聞こえてくる。
2313年という、世界に一つの変革をもたらした一年がもうじき終わろうとしていた。
「少し茹ですぎたな……」
「別に、食えるから問題ない」
蕎麦の出来栄えに納得がいかないのか、グラハムは眉を顰めて難しい顔をしていた。
「違うぞ、刹那。もっと、ちゃんと美味しいものを君に食べてもらいたかったんだ」
思わず赤面しそうなことを力説するグラハムは、きっとそれを分かっていない。天然が服を着て存在しているような男だ。まったくと思いながら、肩を落とすグラハムに慰めの言葉を放った。
「また来年、頑張ればいいだろう」
刹那は何気ない言葉をかけたつもりだった。だから、グラハムが驚いたようにこちらを凝視しているのが不思議だった。
「なんだ?」
「……ああ、いや、そうだな。来年……は、完璧な蕎麦を作ってみせるよ」
どこかしみじみと感じ入った風で、グラハムも止めていた箸を動かしだした。
デジタルの数字が23:15を差している。テレビ番組からは相変わらず笑い声が響いている。そのうちどこからか中継が入って、初詣に訪れる人の群れを画面が映し出していた。
「ハツモウデ?」
「新年になったら神の下へお参りに行くのだそうだ」
グラハムが補足してくれる。
「ふぅん。宗教的行事か?」
「そこまで堅苦しいものではないようだが。長年の慣習だからそうする程度らしい」
「……ふぅん」
なんともアバウトな話に、刹那は信じられないものに触れたような心地になった。軽い、というか、神とはいったいなんなのかを考えさせられる感じである。
「我々も明日行ってみないか?」
「信仰心もないのに?」
日本の神が誰なのかも知らないのに行ってもいいのか、という思いが刹那にはある。グラハムはハハハ、と明るく笑っていた。
「だから、そんなに堅苦しく考えなくていいんだ。ほんの少し神の手にふれてみる感じらしい。困ったことがあったときに、ちょっと力を貸してくれと願うような」
よく分からないと、刹那は首をかしげた。
「行ってみれば伝わるかもしれない。雰囲気だけでも味わってみないか?」
「分かった」
グラハムがそこまで言うのなら行ってみてもいいか、が刹那の正しい心境である。自主的にしたいことではなかったが、グラハムの誘いを蹴るのも嫌だった。
神なんかいないのに、どうして神にすがるのだろう。
何かを為すためには自分自身の努力と意志と、絶対的な力が必要だ。戦乱という荒波を乗り越えてきた刹那はそれを知っている。神の力を当てにする時点で、それは甘えではないのかと思えるのだ。
「今年も終わるな」
時計を見たグラハムが、静かに呟いた。
時刻は23:35を差している。二人とも蕎麦も食べ終え、何をするでもなくコタツで温まっているだけの時間がゆっくりと過ぎていく。刹那には想像することすら難しかった平穏という名前の幸福を、身を持って体感している。
新年とはいっても、ただ明日がやってくるだけだろう。少なからず、刹那の心にはそう思う部分がある。特別でもなんでもなくて、朝がきて夜になるのを繰り返す毎日のうちの一つに過ぎないのだ。
大晦日に蕎麦を食べるだとか、新年になったらハツモウデに行くだとか。どうしてそれがとても大事なことであるかのように振舞うのか、刹那にはまだよく分かっていなかった。
「刹那。カウントダウンの乾杯をしようか」
「……はぁ?」
考えている矢先から、グラハムのおめでたいプランが持ちかけられた。刹那は「はぁ」と溜息をつく。何故、特別視するのかが、本当に分からない。
「……必要ないんじゃないか?」
デジタルの数字が、9から0に戻るだけではないか。2313から2314にも変わるが、だからなんだという感覚だ。
明日もまた平穏であればいい。ガンダムを動かさずに済めばいい。グラハムがここにいればいい。刹那がそれ以外に望むことなんて特にないのだ。
「必要なくなんかないぞ? 新しい年を迎える日は、一年で今日だけなんだから。そのたった一回を君と一緒に迎えられることを喜ぶのは、必要ないことかね?」
「……」
刹那は、弾かれたように目を見張った。それは考えなかったというか、恐らく今まで考えたこともないことだった。また、グラハムがそうしたいと思った裏側の気持ちも聞かされて、とっさに声も言葉も出せなかった。
「乾杯しよう、刹那。これは記念だ」
記念だから、それをすることに意義と価値があるのだ、と。グラハムはそういった主旨を述べたのだと思う。立ち上がるついでに蕎麦の入っていた器を手に取り、彼はまたまたキッチンへと消えていった。流しに食器を置く音、水を流す音などが背後から聞こえてくる。
グラハムが今何をしているのか、その姿を見なくても、音だけで判断も想像もできるようになった。それが共に過ごしてきた時間の長さであり、刹那の中に確実に積み上げられてきた『当たり前』の部分でもあった。
──ああ、そうか。
使命に重きを置きすぎて、もっとも大切なことを見失っていたのではないだろうか。
当たり前だからといって疎かにしていいことはないはずだった。
スメラギ・李・ノリエガが休暇を与えた意味もそれと同じなのだ。分かっていないのは刹那のほうだった。
「冷えているのは缶ビールしかなかった」
言葉どおりにグラスを二つと缶ビールを抱えたグラハムが、キッチンから戻ってくる。
「問題ない」
刹那の返答に、グラハムは軽く眉を跳ね上げてから、楽しそうに笑う。
「今度カリフォルニアのワインを空輸してもらおうかな。絶品だぞ。特に白はフランス産に負けないほど美味い」
「そうなのか。アンタがそこまで言うのなら、きっと美味いんだろうな」
グラスに中身を注ぎながら、二人でそんなことを話し合う。カウントダウンまであと三分。ビールも飲み頃になるのではないだろうか。
「あと、二分」
付けっぱなしのテレビ番組も、カウントダウンの準備に入って、どこか浮き足立って見える。日本を始めとしたこの辺りの地域全体が新年を祝うために待ち構えているのかと思ったら、少し可笑しくなった。
「あと、四十五秒」
「十秒前から私がカウントしよう」
着実に進む秒針に合わせて、少なくなる数字と共に、グラハムがグラスを取った。
「……nine eight seven……」
ネイティブなグラハムの英語はお手本のように美しい。
「……two one……」
パチリと、すべての数字がゼロになった瞬間、
「Happy new year!!」
グラスを持ったグラハムの腕が伸びて、刹那のそれと重ねあわされた。カキン、というガラスが触れ合う音が木霊する。一年で一回きりの記念の音だった。
刹那の中で、初めて気づいたことが産声をあげる。