The moon on water
けれども刹那はロックオンの姿を捉えられないようだった。もう充分認識できる距離にいる筈なのに、依然として彼の視線はこちらへ向けられない。気配を探る為か、そこかしこへ忙しく動くばかりだ。その瞳は警戒と不安で揺れていた。両手で握りしめた銃が少し震えている。
ロックオンは不審げに呼びかける。
「わからないのか、刹那。もう忘れちまったのかよ。
俺だ、ロックオン・ストラトスだ」
とうとうロックオンは刹那の目の前へと辿り着き、座り込む彼を見下ろした。それでも彼は相変わらずその姿を見つけられない。銃口はあらぬ場所へ向けられている。いよいよ只ならぬものを感じ、ロックオンも焦りを見せる。考えられる限りの最悪の事態が頭を過ぎる。
「刹那・F・セイエイっ」
その懸念を振り払う為に叫ぶように名前を呼び、ロックオンは膝を付いて刹那の肩を掴んだ。その手に人間の熱が伝わってくる。骨張って細いその身体を強く揺すろうとした瞬間、ある事に気付いた。
「手が……透けてる?」
そう、仄明るい場所に晒されて久しぶりにロックオンの視界に映った自身の身体は、その輪郭こそなんとか判別できるものの、全体的にうっすらとした希薄なものへと変貌を遂げていた。冷たい月の光は遮られることなく、そのまま刹那の身体へと降り注いでいく。
刹那に触れている、その感覚はあった。けれども彼の身体を動かすことができない。当の刹那にはそもそも触れられているという感覚自体が無いように見える。その証拠に、刹那は身じろぎもしないで同じ方を見続けているのだ。
星空の見える崩れ落ちた天井の端から、ぽとりと水滴が降ってくる。それはロックオンの身体を透り抜けて地面へと染みを作った。
ロックオンは全てを悟った。ここは天国でも地獄でもない。自分はもう人ではなくなっていて、けれど世界にあるまじき形で存在している。刹那が気づかないのも、声を発しても音にならないのも、当然のことだったのだ。
では、この身体に宿る感覚は何なのか。刹那に触れていると感じることは、以前の記憶から引き出された錯覚に過ぎないというのだろうか。
不意に刹那は糸が切れるように銃を持った手を下ろし、項垂れた。彼の身体はひどく震えていて、肩で息をしている。ロックオンははっとして少年を見た。彼の髪の毛はしとどに濡れている。きっと雨は今しがた止んだところなのに違いない。刹那は雨に打たれながら、この場所へ辿り着いたのだろう。
こんな廃墟に独りきりというのはどういう状況なのだろう。ソレスタルビーイングの任務の途中なのだろうか。何一つわかりはしない。
だが、そんなことよりもロックオンにとって気になるのは、ロックオンもよく見たことのある刹那の白い服がおかしな色に染まっていることだった。ちょうどわき腹の辺り、月の青白い光に照らされて黒ずんではいるが、これは間違いなく血液だ。そっとその場所へ手を這わせてみると、布がそこだけ千切れてしまっているのがわかる。ロックオンは血の気が引く思いがした。
「おい、大丈夫か!」
気付けば無意識に口走っていた。伝わらないとは解っていても、声を上げずにいられなかった。彼のこの状況が自分を呼んだのか、まさか、そんな話があってたまるか。再度刹那の肩に強く力を込める。触れた場所の熱さは、この傷のせいか、それとも雨に打たれたせいなのか。ロックオンには判断しかねた。ただ解るのは、刹那の命の火が頼りなく揺らいでいるということだけだ。
しかし自分に何が出来るというのか。刹那に触れはするが動かすことはできない現状では、傷を手当することも不可能だ。ただただ祈るより他にない。ロックオンは刹那の、未だ銃が握られたままの手に自分の手を重ねる。
幾許かの時が流れた。月の光は少し角度を変え、しかし変わらずロックオン達を照らし出し続けていた。ロックオンはその間、ただただ刹那の手を握り、その名を呼び続けた。刹那は苦しげに眉を顰め、絶え間なく荒い息を吐いている。
「ちくしょう……刹那、しっかりしろ!」
もしも涙が流せるならば、きっと溢れ出していた。
家族の仇を討つこと、ライルの生きていく未来を創ること、その為に自分の命を差し出した。それを短慮だったと自嘲こそすれ、悔やんだりはしなかった。その選択が自分にとっては最良であり、必要なものであったと、信じていたからだ。 だが今は、この手で刹那を救うことが出来ない、そのことがもどかしく苦しい。目覚めてから初めて、ロックオンの胸には後悔の念が沸き起こった。
生前のロックオンが何くれと少年の世話を焼いていたのは、そうすることで彼の哀しみや孤独を多少なりとも癒すことができれば、という思いが少なからずあったからだ。
だがその行為の中に、家族を失った己のどうしようもない欠落を埋めたいというエゴが含まれていなかったと言えば嘘になる。ロックオンは刹那にかつての自分を見ていたし、自分の兄弟の影をも求めていた。
感傷的な意味を隠した手を差し伸べることが、果たして刹那にとって良いものなのか。それを計り兼ねながらも、刹那の孤独を目の当たりにする度にロックオンは手を伸ばさずにはいられなかった。
しかし今、ロックオンの心に生まれた感情には何の迷いもなかった。自分の中の足りない何かを満たすためではなく、ただ刹那を助けたい、それが全てになっている。それはシンプルな、でもとても確かな動機だ。
「死ぬな、刹那。生きてくれ、刹那!」
重ね合わせた手にロックオンは額を寄せる。命を捨てた自分が言うのはおかしい台詞なのかもしれない。だがそれはロックオンの正直な気持ちだった。
だから強く、強く願った。
雨水がまた、月光と共に滴り落ちてくる。銀色の光を受けて冷たく輝きながら、ロックオンの身体をすり抜けて重ねられた二人の手の甲に落ちてくる。弾けた水が刹那の浅黒い肌を滑り落ちる。
それに反応して、ぴくりと刹那の手が動いた。それに驚いたロックオンも反射的に手を離し、同時に身体を起こす。刹那の指から離れた銃が、存外に軽い音を立てて床へ転がった。
そして刹那はゆっくりと顔を上げた。少しぼんやりとした表情ではあるが、その煉瓦色の瞳はロックオンをしっかりと捉えているように見えた。
「ロックオン・ストラトス……? そこに、居るのか?」
まるで夢の続きでも見るかのように、うっそりと刹那は呟いた。幼さを残した風貌に比べると低いとも思える声。ロックオンにとっては、すっかり耳に馴染んだ声だ。
「ああ、ここに居る」
さっきまで伝わらなかった声にならない声が、今は聞こえているのか、刹那は黒い睫毛を一度だけゆっくりと動かして目配せした。
「刹那、まだおまえは戦っているのか、この世界はまだお前が傷つかなきゃならないような世界なのか」
ロックオンの切なる問いかけに、少年はそっと唇を動かす。
「そうだ、この世界は未だに歪んでいる。ソレスタルビーイングは世界を変えた。しかし、その世界は俺の――俺達の望んだ世界とは違う」
その声は、息が乱れてはいるものの、驚くほど厳かだった。深い哀しみや憤りを内包しながらも、それを御することのできる強い意志に満ちていた。
作品名:The moon on water 作家名:キザキ