夢で逢えたら
その日は、不気味なほど穏やかな夜だった。
静まり返った廊下を、少し大股で歩く。備え付けられたランプの明かりが、風に流されて揺らめいた。石造りの廊下にブーツの踵が当たって反響する。その鈍く暗い音は、まるで今の自分そのものだった。
「私は聞いていません!」
扉を開けると、同時に叫んだ。
部屋の主は、じっと窓の外を見ていた。雲の隙間から月が覗いて、薄暗い月明かりが海に落ちる。
愛猫のオスカーが、絨毯にするりと着地した。
彼は無遠慮にこちらを見上げると、興味なさそうに鳴いて、向こうに歩いていった。
ちりん、鈴が鳴る。
「静かな夜が台無しだな」
何の用かね?
ビスマルクが低く問う。
鉄面皮の、戦艦の顔。国から求められたそれは、自分の嫌いな顔だった。
その空気に圧倒されそうになったが、右足に力を入れて堪えた。
ここで引き下がっては、来た意味がない。
「今度の作戦からわたしを外したことです」
睨み付ける。
そうすると、彼はやれやれとため息をついた。
「連れて行かねばならんものでもないだろう?」
そもそも。君は単独部隊のはずだが?
シガーに火を点ける。暗やみに灯る明かり。
紫煙が細く立ち上った。その煙に、Uボートが小さく咳をした。
「…通商破壊は潜水艦だからこそ効果のある作戦です。それを、戦艦だけで行くなんて…!」
「無謀だとでも?」
ビスマルクの目をまともに見て、言葉に詰まる。思わず視線を逸らした。
足元の絨毯。上品な模様に、相応しくない黒が走っていた。
「何故そう思うのかね?」
はっとして、顔を上げた。
「出撃を決めたのは人間だ。…その人間が可と決めたにも関わらず、君が不可と決める理由は何だね?」
淡々と。気味が悪いほど、静かな声だった。
月が陰って闇が広がる。
ビスマルクの表情も、たぶん今の自分の表情も、全部覆い隠された。
それは予想もしていなかった返答だった。彼も、間違いなく自分と同じ事を考えていると思ったからだ。だからこそ、次の返答はこうと思っていた。
“今こそ、君の力を借りたい”と。
「感情任せに人の作戦に首を突っ込む暇があるのなら、自分の仕事をどうにかしたらどうかね?」
「……!!」
肩が震える。
悔しくて、コートをぎゅっと握り締めた。
言いたいことはたくさんあった。けれど、何一つ言い返す言葉がなかった。
彼の言うとおり。明確な戦術に則ったものなど何一つない。全て感情論だと言われてしまえば、それまでなのだ。
どんな作戦も、100%の完璧などありはしない。
「及び腰の君など連れていっても、たいした役には立たんと思うがね」
ふかした煙が、空気に四散した気配。
耳を研ぎ澄ましながら、それでも顔を上げることができなかった。口が凍ったように動かない。
北欧のフィヨルドよりも、彼の言葉のほうが、ずっと冷たくて重かった。
カチコチと、時計の振り子が走る音。眼下の海で、魚が跳ねる音。
こちらを伺う視線。煙に乗って、溜め息がこぼれた。
「話がそれだけならば帰りたまえ。私はもう休む」
見上げたビスマルクはもうこちらに背を向けていた。
見限られた。と思った。
そう思ったら、涙腺が壊れてきた。最後の抵抗に。自分が決壊する前に、脇目も振らずに、部屋を出た。
バタン!と夜の静寂を裂く無機質な音。
その音が止んで、足音が遠ざかったのを確認してから、再びビスマルクはシガーに火を点けた。