夢で逢えたら
扉の開く音。風の通り過ぎる気配。見知った気配。静かに響く、靴音。
「止めたんじゃなかったですっけ?」
振り返ると、パンターが立っていた。
葉巻。と、ゆるやかに尾を引くそれを指差して続けた。
「もういいだろう。」
私とて、最後くらいは好きなものを楽しみたい。
その呟きは、さっきのUボートの言葉を肯定していた。
立ち聞きは悪いと思ったのだが、共用スペースの廊下まで聞こえてきたのだから、自分に罪はない。
「やっぱりそーゆーことなんスね」
大胆な補給線の封鎖作戦。
自分達戦車の耳にも、今回のビスマルク出撃の話は入ってきていた。それならば、同じ海軍であるUボートの耳に入る情報は、もっと面倒な憶測を呼んだ、錯綜したものだっただろう。
ビスマルクは死にに行くのだ。
人間がどう思っているのかは知らない。もしかしたら、本当に成功する望みがあるのかもしれないけれど。それでも、死にに行くというほうが、自分達にとってはしっくりきた。
「それ。あのUボートのために止めたんスよね?」
あのちびすけが来るまでは、ビスマルクのこの姿はよく見かけるものだった。
彼は、本当は愛煙家だったのだ。
「…あれは、潜水艦だからな」
汚れた空気は吸わせられんだろう?
ビスマルクの表情は、どこか懐かしいものを見るように優しかった。
灰が落ちる。灯っていた赤は、一瞬で消えた。
「…じゃあ何で?あんな突き放すようなマネしたんスか?」
不可解だった。
というよりも、この二人はずっと不可解だった。
Uボートが軍に入ってから、Uボートとビスマルクとの仲は急速に悪化していった。
端から見れば、お互いを気にしているのは分かるのに、口を開けば刺々しい会話の応酬だった。
ビスマルクは、Uボートの一つ一つを否定した。それは一見して、上官らしいシビアなものだったが。どこか牽制にも、拒絶にも似ていると思った。
少しの沈黙。
風がガラスを小さく叩いた。
「…昔、絵を貰ったことがあってな」
その声は優しく。そしてその顔は、哀しげだった。
「あれは言ったんだよ。海でも川でも…すべての場で、私の助けになる、と」
「美談じゃないスか」
ほー。とため息をついた。
今の二人からはまるで想像もつかない話だ。
そう思うかね?
ビスマルクは、苦く笑って言葉を続けた。
「あの時のあれには、たぶん私が全てだった」
月が陰る。影が広がる。
語り掛けるビスマルクの横顔を、じっと見つめた。
「…自意識過剰と言われるかもしれんが。ほとんど他者との接触がないのが、潜水艦だ…。」
ふー。と、息を吐く。
紫煙はあてもなく彷徨って、そして影も形も残さず消えていった。
「軍の命令も、自分すらも蔑ろにしてまで…。あれは私を助けようとするだろう…」
それこそ。すべての場で、だ。
「…、………」
こくり、と。自分の喉が鳴る音がした。
ジュ。と、明かりが握り潰される。辺り一面に、葉巻の匂いが広がった。
ビスマルクは、握り潰した葉巻に視線を落とした。
「私が、…そういう風に育ててしまった」
「…………ビスマルクの旦那…」
「…………」
昔見た、幼いUボートの笑顔。今でも鮮明に思い出せる。
本当は、軍人として育てねばならなかった。
いや、本当は私が育てるべきではなかった。本当は、深く関わるべきではなかった。
心を明け渡すべきではなかった。
心を、貰い受けるべきではなかった。
それなのに。わたしはあれを、まるで自分の子供のように思ってしまった。
父親も知らない私が、家族も知らない私が。何も知らない私がしたのは、取り返しのつかないことだった。
あの日を幸せだと思った。それは今も変わらない。
けれど、私は彼に幸せを与えるつもりで。自分勝手な幸せを享受して、彼が独り立ちできる足を折ったのだ。
「…それで、厳しく当たったっていうんスか?」
歯痒かった。
どうしようもなく歯痒くて、悲しかった。
「…私には、もう時間がないようなのだよ」
戦艦の時代は終わる。
終わりゆくものは、残しておく必要もないだろう。
本当は向き合いたかった。
けれど。
戦うためだけに生まれた私には、向き合い方も、歩み方も分からなかった。
その私ができることは、ただひとつ。
彼の中から、私を消すことだけだ。