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ネオ・チネマ・パラディッソ 3

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「…ウィーン、の音楽大学ですか」
「ええ、先日のコンクールで貴女の歌を聴いた教授が、推薦状を書く、と」

 放課後の音楽室で、いつものようにピアノにつく前に、ローデリヒさんが差し出した書類。ドイツ語で書かれたそのパンフレットに、わたしはざっと目を通す。
 きちんと読むまでもない。それは私が音楽を学び始めた頃からの憧れの大学で、昔から何度もうっとり眺めた資料だった。

「語学試験の結果も申し分ないようですし、あちらには、うちの親戚の者も住んでいます。わたしも、あなたの歌は、すでに専門家から本格的なレッスンを受けるべき段階だと思いますが」

 降って湧いた幸運、とはこのことを言うのだろう。願ってもない話だった。今のわたしが望みうる最高の環境で、朝から晩まで学ぶことが出来る。こんなチャンスはめったにない。
 それなのにわたしの口は思うように動かなかった。
 書類に目を落としたまま、かろうじて小さく呟いた。

「ありがとうございます。…もう少しだけ、考えさせていただけますか?」



 * * *



 2人分の熱い体温の余韻が残るあたたかい闇の中。
 眠るギルベルトの硬い髪を繰り返し、飽かず、なでる。

 わたしの中で達したまま、寝入ってしまった彼の、ゆるやかに規則正しい寝息を聞きながら、わたしはその額に、何度目ともわからないキスをおとした。
 身体をずらして中にはいったままのものをゆっくりと抜き、外したゴムをゴミ箱に捨てる。汗ばんだ硬い胸に、おへそに順々にキスをして、最後にやわらかくなったそれを口にふくんできれいに舐めた。
 ギルの肌はどこもかしこもすべすべだ。
 さっきまで散々わたしを追い詰め、今はわたしの口の中に可愛いらしく収まるものも例外ではない。
 いとおしく口の中で愛撫すると、夢の中でも気持良いのか、ギルがほんの少し小さく呻いて、眉を歪ませる。わたしの胸をいとも容易く締め付ける声音。いちいち可愛いんだよクソが!とその頭をぐりぐりしたくなるのを必死にこらえた。

 眠る彼は、絶対に知らない。
 こんなにもわたしが彼を好きだということを。
 ギルベルトの匂いのする懐かしいこの部屋で、こうして肌を重ねて横たわっていると、世界に二人だけになったような錯覚がして、このまま死んでしまいたくなる。


 あの夏、ふたりだけの廃工場で、事故のように、こんな関係に雪崩落ちてから。
 好きだとも、付き合おうとも言われないまま、ただただ身体だけを重ねるわたしたち2人を、恋人同士などとは、けして呼べないだろう。
 留学してしまえば、当然、こんな風には会えなくなる。
 ちょっとやそっとでは行き来もできない距離に裂かれ、離れてしまえば、いつかギルベルトは私を忘れ、何事もないように可愛い彼女をつくるのだろうか。

(――わかりきっていることだわ)
 口は悪いし、いつまでたっても子供のように騒々しいが、根は真面目でまっすぐな彼。
 こんなセックス先行の爛れた関係なんて、そもそも絶対に似合わない。

 徐々に汗が引いていく体に比例して、心も冷たく沈んでいく気がした。どんなときも私の片足を掴んで離さない、底のない沼のような絶望が、再び私の心をどす黒い緑に染めていく。振り払うため、毛布にもぐりこみ、ギルの胸に顔を押し当てる。その拍子にどこかでリモコンを踏んづけでもしたのだろうか。突然テレビの光がついた。ベッドの上、裸のわたしたちをぼんやり照らす。
 わたしは目を見開いた。


 テレビ画面の中にはいつかのわたしたちがいた。
 生々しく軋むベッドの音。押し殺した、けれどどうしようもなくだらしなく溢れる二人分のあえぎ声。裸の女が、横たわる男の身体に跨っていやらしく腰を振っている。長い髪を垂らして、白い蛇みたいに絡み付いて。
 これは誰だ。

 あの顔も思い出せない映画の中の綺麗な歌姫に、かたちだけは近付いて、けれど似ても似つかない、男の欲望を煽る肉をつけただけの女の肉体。
 まだ女になりたてのくせに本能的な媚態をみせつける。その仕草、声、表情、すべてに、男を興奮させるための技巧を凝らして。

 わたしは口を覆った。
 
 はじめてのときだって、煽ったのは、他でもないわたしだ。
 何も知らない、女というものをあまりにも知らないギルベルトは、あれを一方的な強姦だと思っている。
 違う。わたしへの欲望を映す彼の眼を見た時、この身体中を襲ったのは紛れもない喜びだった。わたしはこのいやらしく肉をつけた身体で彼をおびき寄せ、誘い、罪の意識で彼を縛りつけ、気持ちを伝えないことでますます彼の執着をかきたてている。こんなのは恋じゃない。映画になんかなるわけがない。歌姫なんかからほど遠い。いまのわたしは、これは――娼婦だ。

 好きで好きでキスをしたけれど、女扱いしてもらえなかった。
 見返したくて、距離をおき、女らしくなろうと努力したら今度はどんどん避けられた。


 それでもわたしはギルが欲しくて欲しくて手に入れたくて、



――身体で、釣ったんじゃないか!!



 映像の中、裸のわたしはひときわ高く鳴いてぐったりと身体を投げ出す。それを抱きとめるギルベルトの、健やかな腕を、哀れだと思った。

 あの日、幼い約束を交わした少年少女が撮っているのは、二人だけで出演して、二人だけで見るハメ撮り動画。
 ひどい話だ。どんなシニカルな映画でも描けない、しょぼすぎる顛末。


 ひきずりこんだのはわたしだ。