鬼哭
いつか眼にしたような光景が広がっている。
それを見て、大谷は思う。
中途半端な理性ならばいっそ、断ち切ってしまえばよかったか。
たまたまその場所を通り掛かった大谷の視線の先で、西海の鬼が三成の前で身振り手振りを付け加えながら話し込んでいる。どうせ利も害もない四方山話に違いない。
そして三成はそれを終始煩わしそうな顔で見ているものの、踵を返して去らずに留まってやっている。その時点で、破格の扱いを受けているのだと鬼はわかっているのだろうか。
実のところ大谷は、三成の正気は常に危ういほど細い糸で繋がっていると認識している。そもそも三成が自分以外に対し、徳川家康に関すること以外で言葉を交わす余地があるなど思っていなかった。
おそらくは三成が見せたのであろう僅かな隙間を、鬼は器用に押し広げているのだ。
憎悪の海に深く深く沈めたはずの男は、何故か三成を前にして息を吹き返した。同盟を求めにやってきた時には怨嗟を振り撒く鬼の相貌をしていて大谷を存分に満足させたものを、三成と一戦交えた後には既に落ち着きを取り戻していた。
図太い奴よな。
長年の毛利の苦労が眼に浮かぶわ。
密約を結んだ同胞の姿を思い描き、大谷は思わずヒヒ、と笑う。
そして笑ったまま、再び二人へ眼を向けた。途端に笑みがかき消えて、ぞっとするほど陰鬱な色が覗く。
「やれ、三成……ぬしは不幸を振り撒く良き餌と思っていたに、我の見込み違いか?」
薄らと冷えた声色で呟く。もちろんそれは大声で笑う男と、それを不愉快そうに、しかし立ち去りはしないまま見つめる三成の元へは届かなかった。
以前、良く似た光景を見ていた。
あの男が三成へ呼びかける、三成は鬱陶しげに振り返る、あの男はそれに苦笑しながら諦めもせずに三成へ語りかけ、三成には何の共感も感動もない話を続けながら時に笑い、時に怒り、時に悲しみ。
三成はそれを厭わしげに見つめながらも徐々に徐々に、足を止める時間を長くしていった。
大谷はくうと眼を細めて、輿を動かした。
近づくにつれて、会話の端々が聞こえてくる。
「――だろ?俺はそう思うんだがよぉ、あいつらはそんな機能は無駄だっつって削っちまって」
「……無駄そのものではないか」
「いいじゃねえか、腕が飛ぶんだぜ、格好良いだろうが」
「飛んだ腕はどうなる」
「ああ、まあ確かに、試作機の腕は海に落ちてちょっとばかり苦労を……って、おいンな眼で見るなよ」
「……馬鹿か、貴様」
吐き捨てる台詞までどこかで聞いたもので、大谷はさらに眼元で弧を描く。そうしなければ表情へ浮き出るかもしれない内心を押し隠すために。
「三成」
呼びかければ、三成は素早く目線を向けた。そして元親へ向けていたものよりも確かに和らいだ声で問いかける。
「どうした。刑部」
「ちと、ぬしに見せたい布陣の図案があってな。ナニ、取り込み中であれば後にでも」
「構わん。見せろ」
刑部がそう言うと、三成は後ろを振り返ることなく大谷の元へと足を進めた。だが放置された元親はこんなことにも慣れたという顔で、断ち切られた会話も特に気にすることはなく気軽に声を張り上げる。
「石田ァ、後で飯にしようぜ。たまにゃきっちり食えよ」
「要らん」
すっぱりと切り捨てられたのに愉快そうに笑う男を後に、歩き出した三成は無表情だ。そして大谷は、どこまで似れば気が済むのかと薄気味悪く思った。
「……随分懐かれたものよな」
呆れた口調で言えば、三成が横目で大谷を見下ろす。
「長曾我部のことか」
「そうよ、あの男よ」
三成は興味の薄い顔で呟いた。
「煩わしくはあるが、慣れた」
それを聞き、大谷は口の端だけで嘲笑う。
慣れた、と。その言葉が含む許容を三成は意識していまい。
「……徳川と似たようなことばかりしよるわな」
それを三成は一体どう思っているのかと、事実を指摘した大谷に対し、三成は眉を顰めて全身から家康への殺気を迸らせながら答えた。
「あれと一緒にするな」
「………そうか、違うのか」
「違う」
大谷から見れば同じものだ。同じく、価値のない、同胞の言葉を借りれば「駒」に過ぎない男だ。思う通りに動いたことは褒めてやりたいところだが、それ以上でも以下でもない。
三成の断言の根はわからない。
わからないことに大谷はやや唇を歪めた。
「我には同じに思えるがな」
同じことを繰り返した大谷に、三成は少し驚いたような顔を向けた。大谷は、三成にとって己と感覚を共にするのが当然の者だった。大谷が故意に自分へ寄り添っているとは考えもせず、自然に同じものを見ているのだと盲目に信じている。歪に成り立った信頼はそこまで強固なものとなっていた。
だから三成は大谷の横顔を見つめたのだが、大谷はこの時ばかりは三成へ添うことはしなかった。
同盟を組んでしばらく経つにつれ、幾つかのことがわかってきた。
飯は食わない。が、しつこく勧めれば鬱陶しがって何処かへ行くのと同じ程の確率で、振り払うのも面倒なのか膳に手を伸ばすことがある。
夜もまず眠らない。が、本当にまずくなってきた頃合いには大谷刑部が何か手を出しているらしく、数刻にせよ死んだように眠っているらしいのでこれは良しとする。少なくとも槍で殴って強制的に意識を落とす必要はなさそうだ。
部下に対しても厳しく無慈悲な態度を貫くが、一方で秀吉と半兵衛の育てた兵だと言って最低限の鼓舞は行う。それに対し、兵もまた恐れながら一方でわが身を削って走っている将を案じているようだ。少なくとも、噂で聞くほど血も涙もない軍勢というわけではなかった。
家康の話は、しないほうが良い。ただでさえ危うい男が途端に正気を失くす。
おおよそ元親が把握したのはその程度だが、日々を過ごすには充分な見極めでもあった。それらを徐々に理解しながら、どれほどすげなく切り捨てられようと気にせずに声をかけていった結果、初めの頃よりもあきらかに交わす会話が増えている。三成の態度はいつも変わらずに不機嫌であったが、ようはそれが普通の状態であると捉えてしまえば問題はなかった。元親は自分の態度は間違っていないと思っている。
なにせ最近では時に、あちらから寄ってくることもあるのだ。
今も元親は、遠くにたまたま見かけた細い影が、元親の方を見た瞬間に足を向けたのに気付いてその場に留まった。気付いたとしてもこちらから近寄るようなことをすると、逆に思い留まって踵を返してしまう場合がある。気難しい野生の獣を相手にしているような意外に愉しい気分を味わいながら、素知らぬふりで傍へ来た相手に問いかける。
「よう、どうした」
対して、三成は妙な顔をした。
何か納得がいかないといった苛立ちを抱えた様子で、責めるような色合いで元親を睨みつける。だが元親は三成に恨まれるようなことをした覚えはない。一昨日強引に飯を食べさせはしたが、それは相手が根負けした結果なのだからいまさら問題はないはずだ。どうしたよ、ともう一度軽く促せば、三成は渋々と口を開いた。
「……刑部が」
「ああ」
「お前が、似ていると」
元親は首を傾げた。
「はあ。何にだよ」