鬼哭
「もう一度答えろ、元親。お前が知っている徳川はお前に対して――いや、何に対してもだ、交わした誓いを容易く反古にして卑怯な不意打ちなど仕掛ける男だったのか」
「そんな奴じゃあなかったさ…だから、変わっちまったあいつが許せねえんだ!」
「お前が信じた男は、そうも簡単に変わり果ててしまう弱い男だったのか」
「何が言いてえんだ、サヤカ」
平行線の問答に苛立ちを隠さない元親に対し、孫市は一旦間を開けて、鋭くそれを宣告した。
「――四国の奇襲は、徳川の策ではない」
「な」
元親は思いもしない言葉に、絶句した。
「ん、だって」
雑賀の情報収集力を知ってはいれど、この眼で見たあの焦土、散らばっていたあの禍々しい黄金色の爪跡が元親の脳裏を駆け廻る。知らぬうちにかぶりを振りながら、元親は茫然と呟いた。
「信じ、られねえ。旗が落ちていた…あれだけの数の…」
だが否定を吐きながらも、その唇からさらなる問いが零れ落ちる。
「じゃあ、誰だって、言うんだ……!?」
それに対する答えをも孫市は手にしている。だが、この点において孫市は慎重にならざるを得なかった。今ここで真実を知ったならば、この男はすぐにでもこの城の主へと鬼の爪を振るうだろう。まさに敵の本拠地の真ん中で、自軍もすべて取り囲まれた状態で、血が昇った頭で暴れては勝算が低すぎる。
「……同盟を組んだとは言え、顔合わせ程度の時間が過ぎれば領地へ戻り待機すれば良いものを、お前がぐずぐずといつまでもこのような場所へいるから……」
孫市は相手に聞こえない程度の声で苦々しく呟いた。孫市が敵地の中心で声をかけたのは、他に選択肢がなかったからだ。本来ならば仇から離れた場所で真実を告げようとしたのに、何故かこの男はこの禍々しい場所を気に入ったらしく、なかなか敵のはらわたの中から出て来ようとしなかった。
元親が気にかけたものが、まさにその仇の軍の総大将であるとは、孫市も想像していなかった。
「元親。ここを出て、徳川に会え。会ってその眼で確かめろ。それが今、我らが――私ができる最大の助言だ」
「……ずいぶん中途半端じゃねえか、そりゃ。雑賀ともあろうもんがよォ」
仇の名前を断言せず、微妙に開示されただけの情報に、元親は胡散臭いと言わんばかりに睨みつける。それに対し、孫市は溜息混じりに慣れた台詞を落とした。
「お前がからすだからだ」
言い終えた瞬間に、孫市の気配は忽然と消えた。
元親はそれを悟ってもう一度雑賀の名を叫んだが、もはやそこに答える者はいなかった。
好き勝手に囀って消えた女に対し、元親は盛大に毒づく。
「だったら、誰の仕業だってェんだよ……!」
日常ではあえて抑えこんでいた激情を引き摺りだされ、脳が沸騰するのを抑えられない。元親は歯軋りをしながら、それでも頭の隅で考える。動揺させ西を分断させるのが手、か?だがそれならば孫市はこんな曖昧な真似はするまい、やるならば徹底的に仕掛けるはずだ。今更中途半端に総てを覆して何になる。思考する影で、記憶の奥底から、今まで聞こえないよう栓をしていた幼さを残す声が響いた。
元親。
呼ぶ声に眩暈すら覚え、元親は呻いた。
雑賀の示したように、直接家康の元へ向かおうと思ったこともあったのだ。それを成せなかったのは、何より今の長曾我部軍が単体で殴り込んでも、いざ戦となった場合に徳川軍に対して勝てる見込みが薄かったからに他ならない。残った大事な仲間を、自ら裏切りの意図を問い質したいという自分の我儘で危険に晒すわけにはいかなかった。だから元親は仇を同じくする相手と手を結ぶ道を選んだ。
――石田。
その相手を連想した途端、元親はふと怒りを削ぎ落して真摯な表情を浮かべた。
危うい場所で佇むあの男が、新参者である元親に対して、わずかながらに、しかし確かな信頼を向けていることを元親は承知していた。その信頼の根が同じ傷だということもわかっている。
万が一、雑賀の言うことが正しければ。
同じ仇を追うという、その言葉すら偽りとなるのではないか。
そうと思い至った時に、元親は開き直って覚悟を決めた。偽りは裏切りとなるだろう。傷を癒さぬままに駆けるあの男の信頼を、更に傷つけることは避けたかった。
「畜生、行ってやろうじゃねえか……。チンケな罠だったらお前でも許さねえぜ、サヤカ」
元親は虚空へ向けて低く宣言した。
一度城内へ戻ると、元親は室内へ籠った。珍しいこともあるものだと眼を丸くする部下たちにたまにゃゆっくりしてえんだよ、と軽く伝えて、丁寧に碇槍の手入れをしながら己の動き方を心算する。
敵の総大将である徳川家康に会いに行くと言って、紛糾せずに通るとは思えない。寝返る気かと言われても仕方のない状況だ。
そして或いは待ち受ける物が罠かもしれないと思いながら、巻き添えを増やすつもりもない。
元親は決めたらすぐに動かなければ気が済まなかった。軍を引きつれては行軍の速度もある程度知れているが、一人であればどうとでもなる。
「結局俺ァ、お前を信頼してるってことか?」
己でも無茶と思える選択肢を選ぶことに、昔馴染みの女を思い浮かべて元親はわずかに笑う。まさか孫市も、こうまで早急に元親が動くとは思わないだろう。呆れ声が聞こえた気がした。
城内総てが静まり返るほど夜が更けるのを待って、元親は一人城を抜け出した。
広大な城の城門には警備の兵がついていたが、元親にとっては何の障害にもならない。すまねえな、と内心で囁いて、手心を加えた一撃を与えれば済む話だ。複数の兵がいたとて、一人が崩れたことにもう一人が気付いた瞬間にはその兵もまた倒れ伏している。元親はそれほど難なく西軍の本拠地を脱した。しばらくは門を抜けた勢いのままに駆け続ける。
ようやく距離を稼いだところで足を止めて振り返れば、道の果てに姿を覗かせる大阪城は、重々しい翳りを纏ったままに荘厳を誇っていた。
元親の不在は部下を戸惑わせるだろうが、それだけで瓦解するほど柔な軍を育てているわけではない。凶王とその参謀も疑問は持つだろうが、手元に残った軍勢は貴重な戦力だ、ひとまず受け入れるだろう。
野郎共、宜しく頼むぜと内心で呟いて、元親は地面に這わせた碇槍に片脚を乗せる。
その穂先が炎を噴き出し、今にも飛び出そうとした瞬間に、突然元親の全身を戦慄が襲った。
考えるよりも先に身体が動いた。咄嗟に地面にあった碇槍を片脚で蹴りあげ、右手で掴む。そして振り向きざまにかざした槍で、襲いかかった八つの数珠を次々に打ち払った。
「――大谷!?」
その武器を眼にして思わず叫んだ元親の前に、宵闇の中から這い出るようにして、全身を布で包んだ異形の男が姿を現した。弾かれた珠はそのまま失速し、引き寄せられるようにゆるりと回転しながら男の背後で漂う。揺れる輿を操りながら、静かに暗がりから浮き出したその様は、闇夜に跋扈する化生の者にも見えた。
「やれ、やれ。……こんな夜更けに何処へ往く、長曾我部よ……」
掠れた声がやんわりと問うが、その音には毒々しい程の嘲りが籠っていた。
元親は苦い表情を浮かべて答える。
「……黙って行かせちゃ、くれねえか?」