鬼哭
「さァて……、行き先もわからねば答えようもないわなァ。何処ぞへ向かう、西海の鬼」
それに対して元親は沈黙するしかない。
「ふ。読みやすい眼よ……東軍、か。随分と早い翻意よな」
「違う!俺は、ただ確かめなきゃならねえことがあるんだ」
己でもこれだけでは筋が通らないとわかっているからこそ、元親は声を張り上げるしかない。それを見据えて大谷は包帯の下で哂った。雑賀が接触したことは報告を受けている。城内へ入り込んだ異物を見逃す程、甘い監視は敷いていない。
この様子を見れば決定的な情報は――今眼の前にいる大谷こそが仇であるとはまだ知らないとわかったが、それでも黙って行かせるはずはなかった。
行けば帰らぬと、知っている。
大谷はここへ来る前に既に、城の翳りへ潜んでいた、余計なことばかりを啼く怪鳥を潰していた。傷を負って逃げていった美しく賢しらな烏は、傷口を呪詛が蝕みしばらくは飛び立てまい。
ぬしも、諸共に潰えてしまえ。
薄らと笑いながら、大谷は殊更に詰る口調で言った。
「そうか、そうか。やはり三成を裏切り、徳川の元へ行くのか。ならば――消さねばなるまいて!」
言い切った瞬間に大谷は珠を飛ばし、元親は槍を構えた。
「違うっつってんだろ!俺はあいつを裏切るわけじゃねえ!」
「口では何とでも言えるわなァ」
「わからねえ奴だぜ……!」
「童のような言動よ。思い込んだら熟慮もせずに突っ走る。あいにく、東へ西へとうろつく蝙蝠など受け入れる余地はないわ」
言葉を交わす間にも、大谷は珠を繰り出し元親はそれを槍で弾く。大谷は西軍造反と理由づけてこの場で元親を始末するつもりだが、元親は相手になるべく傷を負わせずにこの場を済ませたかった。本来の力は差があるものではないが、本気の大谷と躊躇いを含む元親とでは自然と振るえる力が違う。
「消えよ、消えてしまえ……!」
大谷が呪いの言葉と共に放った珠が一つ、槍をかわして元親の鳩尾にめり込んだ。
「がっ……」
一瞬だけ呼吸を乱し、足元をふらつかせたところへ残りの七つが強襲をかける――そう操ろうとして、大谷は瞬時に珠を操るより輿を動かすことを選んだ。素早く飛び退いた大谷がいた場所へ、鋭い音をたてて空から降った矢が突き刺さる。
大谷が鬱陶しげに振り返った後方には、弓をつがえ、土煙をあげて駆けつける長曾我部軍の姿があった。
許せないのだと、仇を討つのだと、そう言いながらも男は存外よく笑った。
大谷が聞けというから聞いてやった、三成にとっては長曾我部からの同盟の申し入れなどその程度のものだった。いくら怨みを挙げ連ねようと、あの男への復讐を譲るつもりも毛頭ない。
だが、迎え入れてやった相手は憎悪をぶつけ合った態度を翻し、やけに気安く三成へ話しかけるようになった。復讐のみを抱えて深く泥土に沈み込む三成には、傍に寄り添うひとつの影の他に、もうひとつ現れた影が鬱陶しく、煩わしく、意味がわからない。憎しみの淵でなおも笑う男の意図が理解できずに、何故貴様はそんなところにいるのだと睨みつけて追い払おうとすれば、からりと笑った男は事もなげに言う。
俺はあんたが気に入った。
常の険悪な表情を一瞬だけ置き去りにして、戸惑いを含む双眸を向けた凶王に、西海の鬼は珍しくも滲むような笑みを向けた。
日常が日常として、過ぎてゆく。奇妙な平穏を醸し出す奇妙な男に、知らぬうちに慣れて行く。
復讐を譲る気はない。
だが、家康の首を刈り取った暁には、この男にも手脚を引き千切るくらいは許してやろうか。
正気と狂気をたゆたう凶王は、ふとそんな気紛れを思い浮かべることすら、あった。
三成、三成よ。……三成。
自分の名を呼ぶ声が遠く響く。三成はそれに気付かない。三成、と呼ぶ声がどこか逼迫したものであることもわかりはしなかった。
長曾我部は造反し、追撃をした大谷の手からも逃れ東へ向かった。
長曾我部軍が頭領を追って密かに城を脱してしばらく後、異変を悟った三成は、「長曾我部軍造反、大谷様が追撃を」との報告を聞き終わらぬうちに駆け出した。驚愕の面持ちを向ける兵士を置き去りにして城を抜け、辿り着いた先には破砕された輿を呪わしげに見遣る大谷の後ろ姿があった。穿たれた地面や一部だけがなぎ倒された樹木が争いの後を示してはいたが、すでにそこには暗夜の静けさが満ちている。
三成は、大谷の脇腹からじくりと湧いている赤を見つめた。
「魚が逃げたわ、……」
背を向けた大谷は三成を振り返らないままに低い声で暗喩を告げた。網は烏の嘴で破かれ、魚は大海へ飛び出した。最後まで、裏切るわけではないのだと喚いていた男は、大谷にとっては屈辱的な輿を壊すという手で追撃をかわして去って行った。長曾我部にとってもあの瞬間に部下が追って来たことは想定外であったらしく、一軍としての離反となったことに悔いるような顔を見せた。
その男もいずれ近いうちに知るだろう、裏切るまいと告げた相手こそが仇であったと。
――雑賀め、せめて命まで獲っていれば少しはこの憂さも晴れたであろうに。
大谷は呪詛を内心で吐き出しながら、いつまで経ってもその裏切りに呪いの叫び声をあげない三成の様子を訝しんで、ようやく振り返った。
そしてそのまま凍りついた。
「三成」
喘ぐように、大谷は言った。動かぬ脚をこれほど忌々しいと思ったことはない。三成が近寄らねば、大谷はその傍へ添うことが出来ない。
「三成よ」
叫ぶでもいい、泣くでも喚くでも、いっそ呪いと憎しみのままに刃を振るうがいい。
硬直して佇む三成の顔からはおよそ人間の持ち得る生気総てが削げ落ち、大きく口をあけた空虚がその身をずぶりと呑みこんでいく。能面も無表情も殺戮の末に空虚を浮かべる三成も見たことはある。だが、これは、違う。
「三成、……殺せ!」
大谷は喚いた。三成はすでにここには居ないのではないか。そんなぞっとする感覚すら覚え、大谷は急き立てるように喚き続けた。
「殺すのだ、ぬしを裏切った輩を許すな、許すな、一人たりとも許さず殺せ、呪え、殺してしまえ……!」
大谷は爪先から膚を這い上がる恐怖に竦みながら、両手で地面を掻いた。膝で地を蹴るようにして這いずる。そうしながら三成の名を呼ぶ。
この男を更なる奈落へ突き落したのは、誰 か。
大谷はその答えから必死で眼を逸らすためだけに名を呼び続けた。
「三成」
ずりずりと脚を引き摺り這う大谷の脇腹から、動きに合わせて濃い赤が広がる。
視界に映った斑の広がる様を眼にして、ようやく三成は反応を示した。糸に繰られる傀儡のような定まらない歩調で、前のめりに這う大谷の真正面へ辿り着くと腰を落とす。
雑賀、長曾我部と連戦した大谷には、包帯で覆い隠した大小の傷がある。特に長曾我部と違い遠慮のない雑賀は厄介であった。三成はその傷を透かし見るように大谷を凝視すると、不意にその両腕を掴んで引き摺り起こした。
「……何故私に知らせなかった?」
呪いの声をあげるでもなく、通常の声音で問う様子はある意味異様であった。大谷は真正面から対峙した瞳の何も映さないことに慄きながら答える。