例えば君が遠すぎて
引っ越すならついでに俺も住ませろ、と言い出した彼に取り敢えず今度引っ越すところは事務所も兼ねているからと待ったをかけた。万一仕事でのトラブルがあった場合に巻き込みたくなかった。そう言ったら彼は笑って、「そんなこと気にするか馬鹿」と一蹴された。でも俺が嫌だった。正直な話トラブルの可能性を建前に、勿論理由でもあったが、生活を共にすることで俺の汚い部分を見られたくなかった。今更と思われるかもしれないが、今更、だからこそだった。彼は確かに俺が真っ当ではない仕事をしていることは百も承知だったが、どれだけそれが汚れ切っているかは知らなかった。隠し事をすれば気持ちが離れるかもしれない、そう危惧もした。けれど彼は「全部を受け入れるのが愛の条件でもないだろ」と屈託なく笑った。
彼は俺が思うよりずっと広かった。
それに優しかった。
やさしく、やさしく、俺を抱いた。持ち前の人外の力で俺を壊さないよう、まるでガラス玉に触れるようだった。初めて身体を重ねた夜。「い、痛かったか!?」喘ぎ声ひとつに彼は怯えた。「違うよ。感じちゃったの。熱くて」俺が揶揄うように笑うと、彼は耳まで真っ赤になって俯いた。お互い満足できるセックスが出来るようになるまでに何度、大丈夫だから、と言い聞かせたかわからない。それほど彼は繊細だった。
同時に身に余る力を厭っていた。羨ましいくらいに思っていた俺には想像できなかったが、痛ましく膝を抱えた彼はまるで幼子だった。堪らなく愛おしかった。
仕事も少しずつ、少しずつ、少しでも彼に顔向けできないようなものを減らしていった。彼と俺が同じ場所で暮らせるように。汚ければ汚いものほどあっさり手を切るのは困難で、結局厄介事や揉め事に彼を巻き込む羽目になったのだが、「俺は頑丈だからな」と何でもないように笑った。
満たされていた。
そんな穏やかな日々が流れる中。どうしてあんな事を口にしたかは覚えていない。
きっと俺が先に死ぬんだろうなあ。そう、俺は彼の前で言った。どうしてそんな事を口にしたのか。どうしようもない馬鹿な話だ。何だそりゃ。案の定彼は心底呆れた声で言った。思い返せば、その日はとても暑い日だった。暑さで頭がどうかしていたかもしれない。論ってもどうにも出来ないとわかっているのに、俺は続ける。だって、俺は普通の人間だから。しまった。そう思った時には手遅れだった。彼は一瞬目を見開いて次には悲しそうな顔で、そうか、とだけ呟いた。
次の日、彼が突然街から姿を消した。俺に何も告げず。ただ、職場や家族には一報を入れていた。だから俺は、すぐには探さなかった。誰にだって一人になりたい時はある。俺は俺が一番彼を知っているのだと思っていた。だから彼はそのうち何でもなかったように笑って帰ってくる。そして俺は一言だけ窘める。「どうして俺に何も言わなかった」たったそう言って、咎めはせず許す。そんな近い未来を想像して、馬鹿みたいに疑わなかった。探すのは信頼の裏返しの気がした。
けれど現実は違っていた。季節が一巡りしようという頃になっても、彼は帰って来なかった。やがて姿を晦ましたままの彼の身を案じた旧友を始め、懇意にしている取引先の役員にまで散々言われ、そうして、ようやく探そうと決めた時にはどうしようもなく手遅れだった。
俺の耳に届いたのは、彼の訃報だった。
***
「やあ、ドタチン。久しぶり」
「おう。…少し痩せたな。ちゃんと飯食ってるのか?」
「やめてよ、おっさんみたい」
「俺がおっさんなら同い年のお前もだろうが」
「違うね。俺は永遠の21歳だから」
「21歳、…ねえ」
門田が意味深に言うと、臨也はあっけらかんとして言い放った。
「そ、21歳」
二人は並んで歩き出す。互いに生活が忙しくなり、以前のように頻繁に会うことはなくなっていた。毎日顔を合わせていた学生時代を考えると、随分疎遠になった感があった。
ただ、纏う雰囲気や関係はさして変わらず、一緒にいると不思議なことに気持ちは馬鹿ばかりしていた遠い遠い頃に戻っていく。それも歳を取った証拠かと自嘲気味に門田は笑った。
「あ」
「どうした?」
急に立ち止まった臨也に門田も足を止めた。臨也は黙したまま歩いてきた道に視線を向けている。
「知り合いでもいたのか?」
「…ん」
門田もそれを追って辺りを眺めるが、あるのは人混みと雑踏。日中の明るい街には人が溢れている。例えばそこに恋人が紛れていたとしても、濁流に飲まれるように消えてしまうだろう。
その中を塞き止める男二人を邪魔そうに避けて人が流れていく。
「たぶん、気の所為だ」
「そうか」
くるりと身を翻して臨也は歩き出す。少し後に続いた門田は手にした切ない花束を持ち直した。
赤の、橙の、黄の。人生を謳歌するように鮮やかな色ばかり。
全て臨也が選んだ花だ。
「それにしても…ネクタイは苦手だ」
「ドタチン似合わないよねえ」
自然に着こなす臨也も柄にもない門田も黒をメインにしたコーディネートはこの暑さに不釣り合い。ひどく汗が出る。
「なあ、ドタチンは幽霊や死後の世界って信じる?」
「さあな。あるかもしれないし、ないかもしれない」
「曖昧だな」
「その方が今のお前にはいいだろ」
「…そうかもね」
無神論者を自負し、霊魂も来世も信じていなかった自分が、と臨也は嗤笑った。
「さっさと行こうか、太陽が世界を夕焼けで染める前にさ」
「…おう」
渇いた声で調子を上げる臨也に、門田はただ頷いた。
自宅に戻ると、臨也は最初にネクタイを緩めた。
「日本人って形式張るのが好きだよねえ」
黒い服は嫌いじゃないから別にいい。それよりも締め付けるような、ネクタイは好きになれない。
何度目かわからない墓参りも恙無く終わり、今日は夜番なんだ、とドタチンとは途中で別れた。デスクの上には未処理の書類が置きっぱなしになっている。調整はしたので明日から再開すれば問題ない。ただ、自宅と仕事場を兼ねているとこういう時、嫌気がさす。仕事という存在がどうしようもない現実を突き付けてくる。
ふと見れば、朝、開けたままになっていた窓から夕陽が差し込んでいる。
窓辺に立ち、臨也は昨日と寸分違わない言葉を呟いた。
「嫌な色だな。都心なのにやたらと田舎くさい」
夕焼けの色は嫌いだ。
正確には色自体は嫌いではない。
その色を田舎みたいだと言った彼を思い出すから嫌いだ。
そうしてまた探してしまう自分がいる。
そして彼は見つからない。
残るのは胸を締め付けるような切なさ。
だから夕焼けの色は嫌いだ。
「どこ行っちゃったんだよ」
ぽつりと、零れた。
それは凪いだ水面に雫のように落ちて、波紋を広げる。
「シズちゃん」
「シズちゃん」
「俺を癒してよ」
「シズちゃん」
「シズちゃん」
「どうしようもない孤独から俺を連れ出してよ」
「俺でいいのか? じゃないよ」
「シズちゃんじゃなきゃ駄目なんだよ」
抑えていた感情が波立って、溢れた独り言は響くことなく消える。
一人暮らしにこの住まいは広すぎる。帰ってきたシズちゃんと一緒に暮らせるように、移り住んでもう何年も経ってしまった。