無口な人
五年の間に、僕は普通に情報系の短大に進学して普通に就職した。
いや、会社は少し普通では無いかもしれない。
でも僕自身が普通である事は変わらないし、やれる事も普通の範囲を出る事は無いだろう。
でも転勤は少し多いかな、まだ三年目なのにもう二回目だし、今度の職場ではうまくやっていけるかな。
転勤先に向かう列車の中、行く先にぼんやりと思いを馳せた。
外気に反して列車の中は暖かくて眠気が襲ってくる。聞き取り辛い車内アナウンスも眠気を誘う。
荷物をぎゅっと抱え直した。
駅まで見送りに来てくれた皆の顔を思い出す。
正臣、もう少ししんみりした顔できないの?杏里は俺に任せとけ、じゃないよその肩の手を今すぐどけろ。
園原さん、そんな顔しないでよ。
君に遠回しにフラれたからって転勤する訳じゃないよ、いや、本当に。
大体僕の為を思ってくれた答えだと解釈してるし、つまりまだ可能性は有るって思ってるんだけど。
あれ、これ大丈夫かな危なくないよね?僕。とにかく、側には居れないけど何かあったらすぐ連絡して。
急ぎだったら正臣に頼って、こう見えて頼りになるからさ。
狩沢さん遊馬崎さん、園原さんの前で転勤先のロマンスとかそういう話はやめて下さい。ダメだ聞いてない。
門田さん、爽やかに頑張れよってありがとうございます、じゃなくて二人を止めて下さい。
渡草さん、ルリさんのサイン入り帽子…?気持ちだけで充分です、あ、本当に大丈夫です。
平和島さん、セルティさんから伝言聞きました、ありがとうございます。
『何か知らんが頑張れよ、またな。』
ってぶっきらぼうだけど優しい所が何だか平和島さんらしく思えて、少し笑ってしまってすみません。
あんまり直接関わった事は無かったけど、一方的に僕の憧れの人だから凄く嬉しかったです。
セルティさん、PDA打ってくれないとわかりませんよ、もしかして泣いてるんですか?
本当にいい人だなぁ、いやいいデュラハン?に抱きつかれるって非日常だし、僕は凄く嬉しいです。
でも、新羅さんの目が怖いのでそろそろ離して貰っていいですか。
新羅さん、あのそんな目で見ないで下さい…やっぱりあの人の友達だな、目で物を言う所が、よく似てる。
別れ際、新羅さんがにっこりと微笑みながら近づいて来た。
その時点で嫌な予感がして、案の定、皆に聴こえる様な音量で彼は僕に言った。
「会えるといいね。」
皆が誰に?という顔で僕を見る。この人本当、嫌な所ばかりあの男に似てるな。
そして弁解の時間も無く電車の扉が閉まった。
あのマッドサイエンティストが余計な事を皆に言ってやしないかと、冷や冷やしながら皆に窓から手を振ったが、あの後誰からもメールや電話が来ないから大丈夫だったと信じよう。
五年前、唯一彼の行方を知っていたのが新羅さんだった。
新羅さんに偶々近所のスーパーで会って、まるで何でも無い世間話の様に聞かされた。
「あぁ臨也ね、もう日本には居ないよロシアに高飛びだって。でも久しぶりに羽を伸ばしたいから色んな国に寄るって言ってたな、あ、そういえばロンドンから絵葉書来てたっけどこやったっけまぁどうでもいいか。」
どうでもいいのか。死亡説とか出てるけど、いいのか。
やっぱり生きてたんだ。そんな気がしてたけど。
でもやっぱりもう、この街には居ないんだ。生きているけど、居ない。心の中でゆっくり繰り返した。
一袋29円のもやしをカゴに入れつつ、それは急に何でまた?何かあったんですか?
努めて何でも無い事の様に尋ねた。
新羅さんはちょっと先を歩いて肉コーナー、一番高価い牛肉を鼻歌混じりで手に取りつつ、
「さぁねぇあいつは独立独歩、弱味を見せる様な奴でも無いしそもそも俺は興味無いから訊いて無いし詳しくは知らないけど、確かに何かヘマしたみたいだね。でもそれ位の事であいつがこの街を離れるとは考えにくいかな、出て行く切っ掛けの一つではあったのかもしれないけど、私が思うに多分、」
恋でもしたんじゃない?
「…はっ?」
思わずぬけた声を出してしまった。
新羅さんがそんな僕の様子に逆に少し驚いて、え?そんな驚くとこ?という顔で僕を見た。
今思うと、この時に見抜かれたのかもしれない。失敗した。いやでも、普通に驚く所だろう。
何でここでそんな単語が出てくるのか理解出来ないし、したく、なかった。
新羅さんは少し意味ありげに笑って、
「臨也だって人間だよ、いやある意味とても人間らしい奴じゃないか、恋ぐらいするさ。」
そうかな、しないんじゃないかな、だって平等を前提とした上から目線の博愛主義者だからこそのあの折原臨也な訳で、つまり彼のアイデンティティでありポリシーな訳で、確かにあの人は最低だけどそれをそんな簡単に曲げるのもどうかと思うな、認めたくない。
ていうかなんか、似合わないし。一体何を根拠に。
「僕が知っている限りじゃ今まで二回あったんだけど、実った事は無いと思うよ。だってあいつは自分の事を良く知っているからね、つまり幸せに出来ないって事と自分の弱味になるって事をさ。だから早々に身を引くって訳だ。折原臨也が恋に関してだけは小心翼翼なんて、まったく笑っちゃうよね。」
いや笑えない。へぇ、二回も。
「でも自分で恋をしたと自覚するのに多少時間がかかるみたいで、その間が結構見てて面白いんだよね。誰に恋したのかすぐ分かるんだ、だってその相手を前にすると正に口蜜腹剣、あの口から生まれてきた様な男が、」
プシュッ
音が鳴り、列車のドアが開く。
入れ替わる人と共に冷たい外気が入ってきて顔にあたり、目が覚める。いい眠気覚ましになった。
ここはもう日本では無いのだから、うたた寝をしてしまったら危ない。
ここはもう、ロシアなんだ。まだあまり実感は無いけど、空気が違う。
そう思い直して、六時間の時差にボケる頭を起こした。