Maria.
◆◆◆
「ただいま」
小さな声で言って、そうっとドアを開けた。継母は…どこにいるのだろうか。
「帰ったの?」
声が飛んできた。思わず身を固くして、はい、と返事をした。壁やドアの向こうの物音を探ったが、こちらへ来る様子はない。僅かにほっとしながら、キッチンへのドアを開けてみた。
継母は鼻歌を歌いながら、夕食の仕込みをしていた。視線を外すと、キッチンの真ん中に据えられたテーブルの上に珍しく花が飾られているので、悟浄は思わず声を上げた。
「どうしたの、こんなにたくさん!キレイだね」
白、ピンク、紫にほのかな黄色。誰かが届けてくれたのだろうか。
「…あら、お前みたいな生き物にもわかるの」
冷たい声にはっとして顔を上げると、継母が笑ってこちらを見ていた。右手に、皿を掴んでいる。
「あっちへお行き!せっかくの花が汚れるわ!」
手を離れた皿が、すぐ傍の壁に当たって弾け、続けて飛んできた小皿が悟浄の額の左側に直撃した。継母がまた何か怒鳴り出す。が、悟浄にはそれを聞き取る術も、なだめる術もない。急いで部屋へ逃げ帰り、内鍵をを閉めた。…涙が出そうになった。額と右頬が痛む。暫くして頬の熱を持った部分に触れると小さな皿の破片が落ち、悟浄はそれを拾うと、空ろな目のまま思いきり床に叩き付けた。
ボクガワルイカラ ボクガワルイカラ ボクガ…
それは、最近覚えた呪文。継母は、まだドアの向こうで何か喚いている。兄が戻るのを、祈った。