不思議の国の亡霊
7.2011/05/05更新
旅行は順調だった。
イギリスという土地が気にいったのかアーサーは終始ご機嫌で、ホテルに帰っても夜通しガイドマップを読んでいてろくに眠っていない。そのせいか、昼食を食べたあとに来たグリーンパークで睡魔が襲ってきたらしい。たぶん暖かい気温と日差しのせいでもあるのだろう。
のんびりとした日程の旅行ではないが、せかせかとするばかりでも楽しくない。緑の多いこんな場所で新鮮な空気を吸いながらゆっくりするのも旅行ならではの贅沢といえるだろう。
午後のグリーンパークは人もまばらでひどく穏やかな空気だ。アルフレッドとアーサーは木陰にあるベンチに座り、公園内にいるさまざまな人たちをぼんやり眺める。
気持ち良さにうっとりと瞳を閉じていると、肩にこつりと重みを感じた。なんだろうと視線を向ければ、静かな寝息をたてて眠っているアーサーがいる。どうやら睡魔に負けたらしく、アルフレッドの肩にこめかみのあたりを乗せて気持ち良さそうに寝息をたてている。
一時間くらいなら、こうしていても良いか。
アルフレッドはそう考えて、のんびりと笑う。そしてそっと、アーサーの丸みの残る頬を人差し指で撫でた。よほど深く眠っているのか、彼はぴくりとも身じろぎしない。
さて、とアルフレッドは息をついて、これからどうしようか考える。アーサーが眠っている以上、アルフレッドもおなじように眠ることはできない。悪い人がいるとは思えないが、置き引きなどに会わないとも限らないのだ。
仕方がないので携帯でも触っていようとポケットに手をかけたとき、前方から人の気配を感じた。
おかしな話だが、不特定多数の人がいるこのパーク内で、その人物ひとりの気配を感じたのだから不思議な話だ。けれど意識が惹かれたのだからしかたがない。アルフレッドは落としていた視線をあげ、なんとなくそちらに視線を向ける。
そこには、アーサーがいた。
服装は違う。けれど、アルフレッドが彼を見間違うはずはない。あれは、どこからどう見てもアーサーだ。
「……あ、アーサー……」
震える声で、思わず呟いてしまった。
視線の先、アーサーとまったくおなじ容姿をした『それ』は、ただじっとアルフレッドを見つめている。
幻か、――……そうじゃなかったら亡霊だ。
ハッとして肩に感じる重みへと視線を向けると、やはりそこにはさっきと変わらず穏やかな寝息をたてるアーサーがいる。自分の知っているアーサーはここにいるのだ。この存在は絶対に幻ではない。ならばやはり、目の前にいるアレは亡霊か生霊なのだろうか。
不思議と怖いとは思わなかった。映画の中で見る幽霊は怖くて仕方がないのに、いざ目の前に現れると恐怖よりも先に「アーサーを守らなくては」という使命感が身体を突き抜けたのだ。驚きに固まっていた腕をどうにか動かして、とにかく隣にある体温を守るべくぎゅっと抱きしめる。荒々しい動作にも関わらず、なぜかアーサーは目を覚まさない。
「アーサー……ッ」
ひどくもたついた声が出た。それでもなんとか起きてもらおうと、もう一度アーサーの名前を呼ぶためにくちを開きかける。
そこで初めて、アーサーの亡霊が動いた。
無表情はそのままだが、彼そっくりの『ソレ』はふわりと一歩前に足を踏み出す。そしてゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。
近づいてくればくるほど、亡霊がアーサーにそっくりなのがわかる。髪の色、瞳の色、肌の色。身長や体格もそっくりだ。歳の割にはふっくらとした頬も、そこがほんのりと赤く色づいていることも、なにもかもがアーサーの生き映しだった。
まるで鏡だ。けれど彼はアーサーとおなじ動きなどせず、独自に動いてこうしているあいだもアルフレッドたちに迫ってきている。
逃げることもできないまま、アーサーの亡霊は目の前まで来てしまった。すこし距離を置いたところで立ち止まった『ソレ』は、温度を感じさせない瞳でジッとこちらを見つめてくる。
とたんにアルフレッドは怖くなった。目の前のその男から、人としてのにおいがしないのだ。人間味がないというか、とにかく生きている人間が目の前に立っている気がしない。人形ともまた違う、無機質感をまとっているような気がする。
やはり亡霊か、幻か、それとも夢でも見ているのか。アルフレッドが息をつめて固まっていると、目の前のアーサーそっくりの『ソレ』が口を開いた。
「はじめまして」
亡霊は、やけにきれいな発音でそう言った。
「……えっ」
まさか挨拶されるとは思っていなかったアルフレッドは、思わず固まってしまう。驚きのあまりおかしな表情でもしていたのか、亡霊は申し訳なさそうに言葉を付け加えた。
「驚かせてしまっただろうか。まあ、無理もないかもしれないが」
亡霊は、アーサーとまったくおなじ声でそう言った。
なにを言われたのかすぐに判断できずに呆然とするアルフレッドに、アーサーそっくりの彼は困ったように笑う。
「警戒しないでほしい。信じがたいかもしれないけれど、俺はきみの連れているその人を助けたいと思ってるんだ」
「あ、アーサーを、かい?」
「ああ。……アーサーと言うのか、彼は」
「そうだぞ。……キミは?」
アーサーそっくりの彼は空気を飲むように一瞬黙りこむ。そして含むような笑みを浮かべて、歌うようにゆっくりと言った。
「アーサーだ。アーサー、カークランド」
「アーサー……だって?」
アルフレッドがオウムのように反復すると、アーサー・カークランドと名乗ったアーサーそっくりのその男は、チェシャ猫のように笑うのだった。