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　命じられて、辰巳がグラスを傾ける。流し込む液体が喉を通過していく。一杯目、二杯目、三杯目・・・四杯目で辰巳は止めた。このくらいで十分なはずだ。しばらくすると、静かに目蓋が開いた。沙子が駆け寄って少し悲しそうに、それから嬉しそうに微笑んだ。起き上がった室井に、辰巳は五杯目を差し出した。
「これで、あなたも僕らの仲間です。」
　躊躇せず、室井はそれを飲み干した。脇腹に手をやって傷の具合を確かめているが、そんなものはとっくに塞がっている。沙子と辰巳がいる。つまり逃げ出せたということだ。「ここは桐敷の本宅です。何も心配はありませんから・・・室井さん、わかってます？」　ぼんやりとしている室井に辰巳が話し掛けた。ええ、と返事が戻ってきた。明瞭な言葉だ。混乱しているわけではない。ただ、何もかも変わってしまった。これから、どうすればいいのかさえ、わからない。
「しばらく、ここに滞在して、それから、場所を移りながら食事をします。そういう生活なんです。」
「・・・この食事は辰巳さんが？」
「はい、今日のは輸血用のやつです。しばらくは、これで・・・慣れたらご自分でお願いします。室井さん、最初からいきなりは無理ですから、気にしなくていいです。」
　人間の血が食料になる。それについて、静信はそれほど戸惑わなかった。今まで、自分は動物を食していた。それと同じことだ。人が人を殺めることは人間の正義では罪になる。けれど、動物を食することは罪にはならない。自分が人狼という人間でないものに変わった時に、神の教えも無くなったのだ。
「・・それは、教えてください。それより、ひとつだけ頼みたいことがあるんです。」
「なんですか？　」
「原稿の依頼を踏み倒しました。それだけは書き上げたいんです。」
　津原に依頼されていた書き下ろしの原稿、題名は『屍鬼』だ。沙子と出会う前から静信が書き進めていたもので、原本は灰になったが頭には残っている。今更という気がするが、静信にはそれだけは書き上げたい理由があった。それを相手は手にするかどうか、それはわからない。ただ、自分は人間ではないが生きているのだと伝えたかった。それが意味するものは相手には違うかもしれない。自分は認めて、こちら側に寝返った反逆者と謗られるのかもしれない。人間の正義の許で、相手が生きていくのなら、それとは違う正義もあるのだと伝えたかった。
「ああ、そういうことなら問題ない。どこかで執筆できるようにします。・・・少し手配するのに時間をもらえれば。」
　辰巳は了承して、すぐに伊豆の旅館を手配してくれた。昼間でも活動できるし、編集者との打ち合せもあるだろうという心配りだ。その近くに桐敷の別邸があって、沙子と辰巳はそちらに移った。原稿はさほど時間がかからなかった。津原に連絡して、原稿を送り、それを校正する一連の作業もなんなくこなせた。外場の事件について、津原は何も尋ねなかった。最初に、「その話はしたくない。」と自分が釘を刺した。
「それで、おまえはどうするんだ？　」
　最後に津原はそう尋ねた。
「・・・何も・・・しばらくは何もしたくないです」
　そうか、と津原は立ち上がっ
た。これで最後だ。二度と小説は書かない。自分は逃げ出せない恵まれた生活から、逃げ出した。逃げられなくて、それを認めたくないから、小説では異形のものを生み出して代弁させた。もう代弁させるものはないのだ。


　尾崎敏夫は、故郷から離れた場所に居を移していた。勤務医に戻って、大きな病院に勤めている。忙しさのお陰で、故郷のことは頭の片隅に追いやっていた。自分は結局、村を救えなかった。外場村は消えた。だが、これでよかったのかもしれないと自分なりに気持ちを整理する。あの火事で何もかもウヤムヤになった。幼なじみも消えた。そして化物も消えたのだ。そんなある日、書店で恐ろしいものを見つけてしまった。死んだはずの幼なじみの本だ。発行日は外場の事件の後だ。それもかなりの期間が過ぎていた。静信が書いていた原稿は仕上がっていなかった。もし、仕上がっていたとしても郵送できなかったはずだ。題名も、内容も恐ろしいほどに、あれと関連している。震える手でそれを取り上げた。生きている？　そうならば・・・あれは起き上がったのだ。あの少女とともに逃げたのだ。部屋に戻って、恐る恐るページを進める。事件の暴露ではなかった。聖書の話をもじってある。しかし、敏夫には怖かった。それは、静信が自分に向けているのだとわかった。途中で離反した静信を詰り、心配した。生きてはいまいと諦めていた。長い小説を一気に読み通して敏夫はソファにどっかりと伸びた。
「・・・俺は賢者で、おまえは兄だと言いたいのか・・・俺達は逢い違えない存在で、けっして理解は生まれないと・・・そして、おまえは向こうで生きていくんだな？」
　荒野で屍鬼となった弟を従えて・・・まつろわぬ罪人として・・・しかし、兄は罪人ではなく、こちらが流刑地だと宣う。どちらが正しいのか、敏夫には明白だが、静信には逆なのだ。後悔はしない。敏夫にとって屍鬼を狩るのは正しいことだった。今でも間違っていないと言い切れる。
「・・・わかった・・・おまえの言い分は・・・もう何も言わない・・・」
　自分の幼なじみを狩ることはできないだろう。いや、生死にかかわればできるのかもしれないが、無理に探そうとは思えない。相手も挑戦しろと焚き付けているわけではない。自分はこちらで生きるということを伝えただけだ。ただ、それだけのことだ。自分とは違う世界の住人となった。だから、二度と逢いまみえない。大きく息を吐き出した。徹夜してしまった。白々と夜が明けていく。幼なじみは眠る時間だ。


　辰巳が沙子に渡した本は、沙子が途中を知っているものだ。最後は知らなかった。読み終えて、となりでぼんやりとしている静信を眺めた。あれから、ほどなく静信は自分で食料を調達するようになった。最初は沙子と同伴していたが、最近はひとりででも出掛ける。それについて静信は嫌悪する様子を見せない。それが沙子には救いだ。
「室井さん、今度はどんなものを描くの？」
「・・・さあ・・・まだ考えていない・・これからは沙子だけがぼくの読者だから、きみのリクエストに答えるというのもいいな。」
　書店で自分の本が出版されたことを知った静信は、津原に絶縁状を送った。室井は死んだのだと。だから、二度と小説は書かない。沙子に請われれば、原稿を埋めるぐらいのことはするが、それを世に送るつもりはない。束縛されるものがないと心が穏やかで静かになった。食事だけは慣れないので少しばかり罪悪感は拭えないのだが、沙子の前では平静を装っている。終わりたいと願った沙子を引き止めたのは自分だ。だから、自分が沙子を悲しませる真似はしたくなかった。
「・・・幸せなものがいいわ。みんなが幸せに暮らしましたっていう絵空事みたいなもの・・・室井さん、聞いてる？」