エデンの壁
* * *
かつてころころと名を変え神を変えたように、
誇りを捨て主義を捨て、俺は東ドイツという名の社会主義国になった。
イヴァンの誰よりも優秀な犬。
不毛な仕事に精を出しては、飼い主から与えられる餌に貪りつく。
国内の統制の褒美をとして、俺がエリザベータの部屋の鍵を要求すると、イヴァンは目を真ん丸にして唇をひきつらせた。
「…君って、本当に最低なんだね」
「扱いやすくていいだろう?」
北の独裁者はありったけの軽蔑をこめた目で俺を見下ろした後、ため息をついて目をそらした。
「ナタに頼んで…一応本人に断りを入れてきてもらうよ」
「…意外に紳士だな。これくらい慣れてると思ったぜ」
イヴァンは白い頬を薄赤くして嫌そうにそっぽをむく。
その潔癖な様子からすると、いままでこんな恥ずべき要求をしたのは俺が初めてなようだった。身勝手な話だが正直少しだけ俺は安堵した。
脅したのかもしれないし、なにかの取引があったかもしれない。
女の部屋の鍵はひどくあっさりと手に入り、俺は薄暗い仕事とひきかえに、初恋の女の身体を好き放題に抱く権利を手にいれた。
* * *
女たちの住む棟へ足を運び、通いなれたエリザベータの部屋に向かう。
数分前にもたらされたニュースが俺を急がせた。
荷物を抱えながら角を曲がると、部屋に続く廊下にナターリヤが立っていた。氷の美貌を持つ、イヴァンの妹。
温度の低い瞳が薄汚いものでもみるように俺を射る。そのエプロンドレスが血で汚れているのを見て、俺は思わず脚を止める。
女はぎらぎら輝く目で唇の端をあげた。
「また来たのか、ハイエナ野郎。あの馬鹿女、今は酷いありさまだぞ。あれに欲情するとしたら、たいした趣味だな変態め」
度重なる人民の蜂起に対する、イヴァンの徹底した武力弾圧。
今回ハンガリーでおこなわれたそれは、近隣に知れ渡るほど大規模なものだった。
「また、けっこうな不細工にされたな」
「…男前があがったって、言いなさいな」
横たわったまま、エリザベータが細い声で憎まれ口をたたく。
腫れあがった痣だらけの顔に、身体のそこかしこを覆う包帯。
一応治療を受けてはいるようだ。少しだけ安心して、持ってきた薬箱を床に置いた。
「傷み止めは」
「さっき飲んだ。…寒い」
「待ってろ」
部屋から抱えてきた一番マシな毛布をエリザの上に何枚も重ねた。
エリザの傷は酷い。治癒する暇がないほど頻繁に怪我を負っているのだ。
あいかわらず強情な女。支配には慣れているはずのくせに、いつまでたっても上手くやろうとしない。
かつて彼女が手をかけて大事にしていた長い髪は、あらかた焼け焦げ、子供の頃くらいの長さにまで切り揃えられている。
彼女が愛するあの男がこの無惨な姿を目にしないのは幸いだと思った。