愛の劇薬
「俺の名前は六条千景。名乗ってなかったろ?」
「……僕は、竜ヶ峰帝人です」
この男、六条千景の前に立っているのは、ひどく精神を磨耗する。
ともすれば逃げそうになる足を必死で押し留めて、自分を勇気付けるために、臨也さんの右手を握った。僅かに伝わってくる低めの体温が、僕の心をほんの少し落ち着けてくれる。
「つーか、偶然っぽく声かけたけど実は結構前から気付いてたんだよ。こっちのヤツが、大声で熱烈な告白してたから見ちまってよ。告られてる側も男で、なんか妙に見覚えがあったから近寄ってみたらなー…まさか、お前だとは思わなかった」
饒舌に語る六条さんは、僕に対してさしたる感慨はないようだ。
六条さんにとっての僕は、ダラーズの創始者とはおよそ思えない、ごく普通の有り触れた一般人の少年なのだろう。そこに、自分の彼女を助けてくれた、というオマケが付属するだけで。だからここまで好意的に、僕に話しかけてくることができるのだ。
「六条さんは、どうして池袋に?」
「こっちの彼女たちに会うために決まってんだろ」
「そう、なんですか」
またTo羅丸とダラーズの間で何かあったのでは、と若干訝っていた僕としては、少し緊張が解けた気がする。
「怪我が治ったみたいで何よりです。それじゃあ、僕たちはこれから出かけるので、」
「……お前さ、」
これ以上話すことはない、とこの場を離れようとした。しかし、唐突に声音を変えた六条さんの言葉が僕の足を止めた。今までのふざけた、気易い感じは欠片もない。どこか硬質な声の響きだった。僕が六条さんに向けて話す声に、少し似ている。けれどその言葉のなかには、真剣な響きも混ざっていた。
「そいつと付き合ってんの?」
真っ直ぐに、何の遠慮もなく、六条さんの言葉が僕の胸を抉る。
「…そうだけど、何か文句でもあるわけ」
二の句が告げない僕の代わりに、臨也さんが質問に答えた。
ひどく不機嫌そうな声を耳にして、六条さんが現れてから初めて臨也さんの顔を見た。臨也さんは、六条さんを睨み付けている。不機嫌を通り越して、怒っているようにすら見える。こんな臨也さんの表情を見るのも初めてで、少し驚いた。
「本当に?」
「本当だよ。俺と帝人君はお互いに愛し合ってるんだ。俺たちの間には誰も入り込めないんだから!っていうか、俺と帝人君の時間を邪魔しないでくれる?埼玉に隠居してろよ、六条千景」
臨也さんの答えに、六条さんの顔が不快そうなものに変わる。
なぜだろうか。男同士で、付き合っていることに対して?それとも、臨也さんが敵意を剥き出しにして六条さんを見ているから不愉快なのだろうか。
「お前、名前は?」
「折原臨也。帝人君の唯一の恋人の名前だ、ちゃーんと覚えておけよ?」
ずきり、と胸が痛む。
その恋人という関係性は、明日で終わってしまう。偽りの関係でしかない。嬉しい反面苦しくて、どうしたらいいのか分からなくなってしまう。
「…別に俺は、男同士の恋愛が悪いとは言わねえよ。ま、俺自身はお断りだけど。当人同士がいいと思ってんなら、それでいいと思う。恋愛って理屈じゃねえもんな。でもさあ…、」
今まで臨也さんと睨み合っていた六条さんが、ちらりとこちらを見る。僕の感情を見透かしているようなその目を見て、僕は無意識に一歩後ずさってしまった。
「……竜ヶ峰、ちっとも楽しそうじゃないぜ」
「え…?」
六条さんの言葉を受けて、臨也さんが僅かに驚きを口にして、僕を見た。
二人の視線が僕へと注がれる。それは、今の僕にとって恐怖でしかない。知らずに泣きそうになって、咄嗟に俯いてぎゅっと瞼を閉じた。
「大して面識のない俺でも分かるのに、どうして竜ヶ峰に恋してるお前がそれを分からないんだよ」
「帝人君、楽しくないの…?」
「そっ、そんなわけ、ないじゃないですか!」
臨也さんの呆然とした、驚きに満ちた声を聞いて、慌てて顔を上げる。臨也さんが心配そうに僕を見ている。ダメだ、臨也さんにそんな顔をさせちゃいけない。臨也さんを、不安にさせちゃいけない。
「一方的に押し付ける愛は、愛とは言わないと思うけどな」
六条さんの言葉は、臨也さんに向けてのものだった。でも、その言葉は今度こそ僕の心に致命傷を与えた。震える体を堪えるように、臨也さんの右手を更に強く握った。怖かった。この手が離されてしまうことが、どうしようもなく怖かった。
一方的に、押し付ける、愛。それはまさしく僕の行いで、臨也さんはその被害者でしかないのだから。
「……すっごい不愉快だ。行こう、帝人君」
臨也さんが僕の手を引き、歩き出す。
その間、僕はずっと俯いたままだった。顔をあげれば、今にも涙が零れてしまいそうだった。
どうにもできない罪悪感が、今更になって僕の胸のなかに満ちていた。