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自鳴琴

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 近くに人家がないために、景色はまるで、サバンナの真ん中で迎える夜のよう。ひたすら真っ暗で、人も車の往来もない所が、ちょっと似ている。しんと静まり返った中に、かすかに潮騒が聞こえるのみ。
 外がまだ明るいうちならば、一緒に散歩に出て気分転換も図れるのに。ピュンマは内心、舌打ちしたい気分だった。
 昼の間ならともかく、辺りが暗くなった頃に彼女と二人きりで海岸を散歩するなんて、いくら何でもジョーに悪い。たとえ、やましい気持ちは微塵もなくとも。
 頭の中でぐちゃぐちゃ考えながらコーヒーをすすっているうちに、カップの中身が空になった。
 それに気付いたフランソワーズが、声をかける。

「おかわり入れましょうか」
「……ああ、お願いするよ」

 渡すカップを受け取った彼女の顔が、いつもの微笑みを取り戻しているのが、救いだった。
 まったく、僕としたことが。これじゃ、気が利かないなんて言ってジョーを責められないや。彼女が立ち上がり、キッチンに向かう様を何気なく見つめながら、ピュンマは密かに自嘲の笑みを漏らした。
 その時である。今まさに居間を出て行こうとした彼女が、ぱっと振り向いて、言った。

「そのオルゴールなんだけど、買って来て下さったのはギルモア博士よ。
 学会でちょっと遠くまで行かれた時に、私に、おみやげだって仰って」

 意外なタイミングの意外な答えに、ピュンマの目が丸くなった。
 その表情を見て、彼女がくすっと笑う。彼は、何度か目をしぱたかせてから、こう返した。

「そうなのかい? 大事そうに飾ってるから、僕はてっきり、ジョーだとばかり……」
「あの人は、あんまりおみやげは買って来ない人なの。
 たまに買うことがあっても、お菓子とか、皆で開けられるような物ばかりよ」
「……そうなんだ……」
「残念でした。ゴシップの種は、そうそう落ちてないわよ」

 すっかり、見透かされている。今更ごまかすことも出来なくて、彼はただただ苦笑いを浮かべるより他になかった。
 今度こそ、彼女はカップを持って居間を出て行く。その背中を見送ってから、彼も立ち上がり、件のオルゴールのそばへと歩み寄った。

(博士、どんな顔してこれを買われたのかな)

 店頭で、照れくさそうにしながら買い求める老科学者の姿が容易に想像出来て、ピュンマの頬も自然に緩んだ。
 底の裏にあるゼンマイを回すと、美しく繊細なメロディーが流れ出る。
 その旋律に乗って、木馬が軽やかに駆け出した。それと同じスピードで、金色に縁取られたガラスの屋根もくるくる回る。
 曲は、どこかで聴いた覚えのある物だが、音楽にあまり詳しくない彼には、曲名など分からない。雰囲気から何となく、クラシックなのかな、と思うだけ。底の部分かどこかに書いてあるかも知れないが、一旦止めてまで確かめるのも無粋な気がしたので、そのまま、曲と共に走る木馬を眺めるだけにした。
 こうして見ていると、まるで遊園地を小さく切り取ってきたようだな。そんなことを思いながら。

 BGにいた頃からは、想像も出来ない。博士も、自分たちの様も。

 絶望。苦悩。怒り。悲しみ。人でありながら、人として扱われない屈辱。
 あの組織に居た日々は、まるで地獄の底のよう。黒い肌を持って生まれたが故に、改造される前にも理不尽な差別を受けたりもしたが、ああまで人間性を否定されたことはなかった。
 人間より優れた力を与えられたと持ち上げながら、そのくせ誰もが、自らの意思を持たぬ兵器か、ただの実験動物と同じ目でしか見ない。求められるのはただただ、戦闘における威力と効率と、研究者たちの満足するテスト結果のみ。名前すら、機械的に付けられたナンバーに取って替わられた。
 倫理など欠片もない改造手術と数々のテストで現場の指揮を執っていたのが、他でもないギルモア博士である。
 故に、共に組織を抜け出すとの申し出があった時には、にわかには信じられなかったし、脱走後もしばらくは、信用はしても信頼し切ることは出来なかったものだ。
 009に次いで改造時期の遅い自分でも、諸々のマイナス感情を乗り越えるのに時間を要した。旧いナンバーを持ち、テスト期間も長かった彼女の心中は如何ばかりだったか、想像するのも難しい。
 けれど、でも。

(もしかしたら、ジョーより博士の方がセンスがいいかも。
 ジョーの奴、もうちょっと乙女心を理解すべきだよな。博士にまで負けてどうするんだよ)

 ここで、研究を続けながらも穏やかに生きてくれていることを、今はとても嬉しく思う。
 こうして日本にやって来て、ジョーやフランソワーズやイワンと家族のように暮らしている姿を見る度に、心がほっこりと暖かくなる。加えて、自分がこうしてメンテナンスなどで来日した時も、まるで自慢の息子が遠方から帰ってきたかのように手放しで喜んでくれるので、自分も自然と、「家」に帰ったような気持ちになるのだ。
 無論、来日が平和な時ばかりとは限らない。祖国での仕事で常に忙しいピュンマは、平和な時より、ミッションのためにここに来た回数の方が多いくらいだ。黒い幽霊の残滓を全て叩き潰すか、あるいは自分たちが命を落とすまで、戦いは終わらない。
 だが、メンバーが揃って赤い防護服に身を包み、戦場へと赴く度――博士は、深い苦悩に満ちた顔をする。
 その表情に、かつて非人道的な研究や実験を行っていた、冷徹な科学者の面影はない。
 強いて喩えるなら、それは我が子を心から案じる老親の姿。

 それでも稀に、気持ちが行き違うこともある。
 かつてBGとの戦いで、瀕死の重傷を負い、人間離れした銀の鱗で全身を覆われたことがあった。
 あの時は、命を救われた恩も忘れ、博士に殺意にも等しい怒りや憎しみを覚えたものだ。今はもう元の体に近い黒い肌になっているが、それでも未だに時々夢に見る。そのくらい、受けた衝撃は大きかった。
 その一件は極端な事例であるけれど、互いの意識や考えの違い故に、思わぬ形で傷つけ合うこともある。自分たちはやはり、博士にとっては己が研究の被験体でしかないのだろうかと、疑心暗鬼に陥ることも。
 けれど、折々に触れる心遣いや誠意や親心が、時々垣間見える子供みたいな頑固さや秘めた悔恨が、最終的に自分たちの心を融かす。
 それは、BG時代には絶対に有り得なかった、人と人の対等な関わり合いならではのこと。

 ピュンマが物思いに耽る間にも、オルゴールのぜんまいが切れようとしていた。
 旋律が緩やかに減速し、軽やかに駆けていた木馬も、ゆっくりと走りを止めつつある。ドームの中で築かれた小さな遊園地は終演時間を迎え、メリーゴーランドは、ただのガラス細工に戻った。
 背後では、キッチンのフランソワーズが、コーヒーを淹れる気配がする。
 そろそろここに戻って来るだろうか。そう考え、ピュンマも座っていたソファーに戻った。

 博士が帰って来られたら、何の話をしようか。博士はいつでも、自分の土産話を喜んでくれるから。
 いや、まずは「ただいま帰りました」と言うべきか。
作品名:自鳴琴 作家名:藤村珂南