immortal lover
詳しく問いただそうとすると、それより早く彼女は言った。
「あ、朝ごはんできてるよ。ほら、早く顔洗ってきて!」
「………」
洗面所に追いやられ、俺は腑に落ちないながらも彼女に従った。
「おはよう、レン」
朝の香穂子の挙動には疑問を覚えたが、朝食の席では特に話題にものぼらず、いつものように家を出た。
今日は事務所に寄ったあと、スタジオに入る。その後、取材があったか―――
「おはようございます」
「あ、これ今日の書類ね。必要な楽譜と資料」
「どうも」
「あと…そうそう」
スタッフに招かれて、俺は別室へ移動した。
「これなんだけど」
そこには、段ボール箱3箱が、口を開けて並んでいた。
「………」
「どうする?これ。手で持っていくわけにはいかないとは思ったんだけど、一応尋ねてからにしようと思って」
一週間に一度は、事務所を訪れ、スケジュールや必要書類を受け取るのだが。
受け取らなければいけないものは、他にもあった。
「しかし、本当にレンの人気はすごいねぇ。演奏もさながら、ルックスもいいもんだから女性ファンが物凄いよ」
「………」
この段ボール箱の中には、ファンからの手紙やプレゼントがぎっしりと詰まっている。
…確かに、俺の音楽に共感してもらえるのはありがたいが…。
手放しでは喜べない。
なんというか、こう、アイドルのような扱いを受けているような気がして。
俺はあくまで音楽家―――ヴァイオリニストだ。だから、ルックスで持て囃されても嬉しくなどない。
「…お手数ですが、いつものように郵送して頂けますか」
「了解。そう言われると思った」
俺は事務所を出て、スタジオへ向かった。
「香穂子」
「あっ!月森くん。お疲れ様!」
大通りのカフェで、俺たちは待ち合わせしていた。
今日は帰宅の時間が重なるということで、せっかくだから外食でもしていこうということになったのだった。
「ここのケーキ、おいしいんだよねー。あっ、先にサンドイッチ頼んでもいい?」
「ああ、好きなものを食べて構わない」
時間が合う時は、王崎先輩を含めて3人で落ち合ったりもするこのカフェは、香穂子のお気に入りだった。
彼女がウィーンに来て初めて俺と一緒に入ったカフェだからだそうだ。
俺は、彼女がウィーンに来る以前から頻繁にこのカフェを利用していたが、特別気に入っている店というわけでもなかった。
ただ、大通りに面していて入りやすく、自宅からも近いからという理由でよく通っていただけで…。
それが、今では俺の中でも特別な場所の一つとなっている。
彼女が気に入っているからといって、自分も特別に感じてしまうなんて…。
自分がどれだけ彼女に惚れ込んでいるのかを確認させられて、誰に冷やかされたわけでもないのにくすぐったい気持ちになる。
「月森くんは、いつもの?」
「そうしよう」
頷いて、彼女はサンドイッチとガトーショコラ、ヨーグルトパフェを注文した。
夕食にサンドイッチとは些か物足りない気もするが、この店のサンドイッチはかなり量が多く、二人で分け合って食べるのが慣例となっている。
もちろん、デザートのために少し胃を空かせておくことも忘れない。
「今日は何をしていたんだ?」
「うん、今日はアンサンブルの授業と…」
「やはり君は団体演奏型のヴァイオリニストに?」
「うん。最後まで悩んだけど、やっぱり自分にはアンサンブルとかオーケストラで弾くのが合ってると思うし…」
「そうか。…よかったな、香穂子」
「え?…うん、ありがとう。でも、月森くんはソリストを勧めてくれてたから…」
「いや、その道でも充分いけると思っていただけだ。君が決めたのなら、それが一番いいと思う」
俺は笑顔で答えた。
俺にとっては、俺と同じ音楽の道を歩み、そして俺のそばにいてくれること。
それだけで充分なのだから。
その先の道は、彼女が決めることだ。
「アンサンブルの授業受けててね…。いろいろ思い出しちゃった。学院のみんなでコンサートしたこととか」
それまでも沢山アンサンブルなんてしてきたのに、今更だよね、と香穂子は寂しそうに笑った。
きっと、彼女は今、俺が単身ウィーンに留学してきた当初の寂しさを感じているのだと思う。
愛しい恋人、親しい友人たちと離れ、一人ウィーンの地で過ごす寂しさ。
それを乗り越え、やがて忙しさに追われて…ふと呼び覚ます、楽しかった頃の記憶。
だが、彼女は俺より幾分マシなのではないかとも思う。
俺とは違い、初めから一人ではなく―――恋人のそばで過ごせるのだから。
なんて、自惚れたことを考えてしまうのは、俺が今とても満たされているからだろう。
「…香穂子。やはり、少し纏まった休みを取って、帰国しないか?」
「えっ?!で、でも、月森くんだって忙しいし。私も大学があるから…」
「休みが取れないわけではないだろう?」
「でも…。ううん、今はまだいい。月森くんがまた公演で日本に行く時、私もついていくよ」
「いつになるかわからないぞ?」
「うん、それでもいい。…それに、あんまり頻繁に帰っても、逆に寂しくなるだけだよ。日本の友達に連絡取る手段は、いくらでもあるしさ!」
「しかし…」
と、注文したサンドイッチがきて、彼女はこの話は終わり!と言わんばかりに笑顔を取り戻した。
「さっ、食べよ食べよ!」
「………ああ」
「どうしよっか、この後」
食事を終えた俺たちは、腕を組み、ウィーンの街を歩いていた。
時刻は8時。
まだ帰宅しなくてもいい時間だ。
「そうだな。…公園にでも寄っていこうか」
「あっ、いいね。じゃあ…」
「?」
彼女は、ぴたりと歩みを止めた。
なんだか険しい顔をしながら、周囲を伺っているような動きをしている。
「どうかしたのか…?」
「う、ううん。………月森くん、やっぱり…もう帰らない?」
「もう帰るのか?」
公園に向かうことを嬉しそうにしていた手前、帰りたいという申し出に少し戸惑う。
「う、うん。ごめんね。ちょっと…疲れちゃって」
「………?わかった。疲れているのに、歩き回らせるわけにはいかないな」
それ以上問い詰めることもなく、俺たちは帰宅した。
帰宅して、ふと思い出したことがあった。
それは、今朝のこと。
いや、今朝だけに限らず、このところ毎日のように書類の処理は行われていたようだが…
起きてすぐのことだったこともあって、今朝は詳しく話を聞けなかった。
なんとなく気になって、俺は彼女に尋ねてみることにした。
「そういえば、今朝…。随分たくさんの書類を処理していたようだが、大学の書類か?」
「!」
大仰ではなかったが、一瞬、彼女の顔が強張った。
………なぜ?
「あ…あれは。そう、大学の書類!」
「………本当に?」
「っ、本当だよ。な、なんで?」
明らかに動揺しているように見える。
何か、俺に隠さなければならない事情でもあるのだろうか?
「香穂子。何かあるのなら、ちゃんと言ってくれないか?俺は…」
作品名:immortal lover 作家名:ミコト