immortal lover
「………!いいのか…?」
香穂子は、大学を移ると言った。
逃げるみたいで悔しいけど、やっぱり辛いものは辛いし、俺と別れるよりはよっぽどましだと。
「それにね、正直、いろんなところで勉強するのもいいかなって思ったの。一からやり直すのは、大変だけど…。そんなのほら、慣れちゃってるっていうか」
高2の春、突然ヴァイオリンを弾くことになり。
決してレベルの低くない、学内コンクールに出場することになり。
アンサンブル、コンサート、コンミス…。
真っさらな、何も積み重ねていないゼロからの出発で、ここまでくじけることなくやりこなしてきた香穂子。
彼女の笑顔に裏付けられた、強さ。
彼女は、俺が思うより何倍も何十倍も強い女性だ。
「………すまない。俺のせいで」
「あっ、ひとつ条件があるの」
香穂子は人差し指を立てて言った。
「…今回のことで、謝ったり、自分のせいだって言ったりしないで。…それが条件」
「香穂子…」
俺は、ゆっくりと頷いた。
「これから、できる限り早く帰宅することにする。だから、待っていてくれ」
「うん!」
休学手続きの電話をする香穂子を見届けてから、俺は家を出た。
「…違う。もう一度」
♪〜♪♪♪〜♪〜
「アルペジオの部分のテンポが悪い」
♪♪♪♪♪
「遅い」
「あーん、疲れたよ〜」
ぐったりとしながらヴァイオリンを片付ける香穂子に、眼鏡を外しながら言う。
「どうやら、まだ俺にも君に指摘をする余地は残っているようで、少し安心したな。いや、がっかりするべきか?」
「うう…。月森先生の授業は大学の授業より厳しいです…」
あれから、1週間が経った。
以前も時間を見つけては自宅で香穂子のヴァイオリンの指導をしていたが、大学を休ませるようになってから、以前の何倍も厳しく指導している。
大学を休ませてしまっている、せめてもの償いに。
香穂子は、自宅でヴァイオリンの練習をしながら、インターネットで大学を探している。
気になる大学が見つかった時は、俺が同伴して見学に行ったりもした。
外出は、必ず俺が同伴している。
どうやら、大学を休むようになってからは、周囲に彼女の姿はないようで、香穂子も安心していた。
それでも、もう少しほとぼりが冷めるまでは、なるべく警戒を解かず、俺と行動するよう言い聞かせていた。
彼女を軟禁状態にしてしまうことに胸が痛んだが、案外充実した日々を送っているようだ。
「ていうか、大学行ってるより月森先生に指導してもらう方が上手くなれてる気がするんだよねー」
「しかし、アンサンブルの練習ができないだろう。君の場合、音楽史や理論の勉強もまだ足りていないようだし」
「うぐっ…。その通りです…」
俺たちは笑って、そろそろ休もう、と寝室へ向かった。
「………月森くん。毎日仕事で疲れてるのに、ヴァイオリン指導してくれてありがとう」
ぽつり、と彼女は言った。
「…いいんだ。俺も楽しいからな。高校時代の二人練習を思い出す」
「あっ…。私も同じこと考えてた!」
「だろうと思った」
二人して笑う。
「…明日は、少し早めに出ることにしたんだ。大学の事務が終わる前には帰ってこられる」
「うん!ありがとう!」
必要書類が集まり、入学先の大学もほぼ決まりかけたことから、明日今まで香穂子が通っていた大学に退学届を出しに行く予定だ。
日本の家族にも事情は話して、承諾を得られた。
この時、俺たちは希望のようなものすら抱いていた。
それにより、香穂子が今まで受けていた嫌がらせによる心の傷も、癒えてきたようで。
「………あ!明日早いって聞いた手前、ちょっと言いにくいんだけど…」
「なんだろうか」
「あのね。…さっき高校時代の話してたら、つい…。もう一度、ヴァイオリン弾きたくなっちゃって」
「ヴァイオリンを?いや、構わないが…」
「でね、でね、月森くんも一緒に弾いてほしいの。ほら、日本を出る前に、合わせた―――」
「ああ。…俺も弾きたい」
覚えててくれたんだ、と微笑む香穂子。
忘れるはずがない。
あの、“愛のあいさつ”を―――――。
♪〜♪♪♪♪♪♪♪〜♪〜♪〜…
時折目が合って、なぜか気恥ずかしくなって互いに目をそらす。
なのに、また同じタイミングで視線が重なって―――
あの頃の気持ちがまだ自分の中に息づいているのだという温かさ。
♪〜♪♪♪♪♪♪♪〜♪〜♪〜…
この調和は俺たち二人にしか生み出せない、世界でただひとつの音色。
愛しさが溢れて、止まらなくなるような、少しの怖さ。
香穂子が愛しくてたまらない。
演奏中、ずっとこんなふうに想っていた。
「…明日、早いんだよね?」
ベッドの中で、俺たちは向かい合っていた。
香穂子は、含みのある言い方でそう聞いてきた。
「そうだな。6時には起きないと…」
「…だよね。私のために早起きしてくれるんだもん。早く寝なきゃ、ね」
くるりと背を向け、言葉は途切れる。
「…君の要望なら、応えないわけにいかない」
「わっ!」
香穂子の肩を掴んで、自分の方を向かせる。
それから、彼女の上にのしかかって。
「つ、月森くん。寝なくて、大丈夫なの…?」
「あいにく、いい演奏をしたせいで気持ちが高ぶっているみたいだ。…すぐ眠れそうにない」
「………ッ!」
俺が言ったことは嘘じゃない。
本当に、素晴らしい演奏だったから。
彼女と共にヴァイオリンを奏で、
彼女と共に暮らし、
彼女と愛し合う。
今思えば、幸せすぎた日々は、彼女と過ごす一生分の幸せだったのかもしれない。
この日の彼女の演奏が
俺が聴く彼女の―――最後のヴァイオリンだったなんて。
「5時には帰宅する」
「うん、わかった!じゃ、いってらっしゃい!」
玄関を出ようとすると、袖を引っ張られた。
忘れ物でもあったか?と振り向く。
「…どうした?」
「あっ…。う、ううん。わ、忘れ物とか…ない?」
「特にないはずだが…」
と言って、もじもじとしている香穂子を見てから言い直す。
「…いや、ひとつ忘れ物をしていたようだ」
「えっ?!」
自分で言っておいて驚く香穂子に笑って、口づける。
今度こそ、間違いなく忘れ物はないはずだ。
「行ってくる」
「う…うん!いってらっしゃい!」
真っ赤になって照れている香穂子をもう少し眺めていたかったが、もうあまり時間がない。
俺は、後ろ髪を引かれながら玄関を出た。
「では、1時間の休憩を」
次の公演は、俺単体のコンサートではない。
ある楽団からゲストとして招かれ、オケと共に何曲かソロで演奏する。
「あ、すみません月森さん」
「あ………、はい」
「午後からのリハーサルで、変更点がいくつかありまして、休憩中申し訳ないんですが、少し…」
「ええ、構いません」
結局40分ほど時間がかかってしまい、残り時間で昼食をかきこんでから午後のリハーサルに臨んだ。
作品名:immortal lover 作家名:ミコト