immortal lover
しかし、予定通りの時間にリハーサルは終了し、本来は練習後に寄る予定だった事務所にも午前中に寄っておいたため、香穂子との約束の時間に帰宅することができた。
「……………?」
部屋の前まで来て、インターフォンを押す。
しかし、いつまでたっても鍵が開けられる様子がない。
不思議に思いながら、鞄から鍵を取り出す。
いつもなら、香穂子が鍵を開けてくれるはずなのだが…。
「香穂子………?」
部屋の中は、暗い。
いや、そんなはずはないと思いながら、全ての部屋で香穂子の姿を探す。
………いない?
なぜだ。嫌な焦燥感に駆られながら、何からしたらいいのか…そう考えて、不意に手に当たったものを取り出す。
携帯電話。
そうだ、家にいないのなら俺の携帯になんらかの連絡が入っているはずだ。
結局、一日中電源を切りっぱなしだった携帯。
電源を入れると、留守録が入っていた。
相手は、香穂子。
少し安堵して、留守録のメッセージを聞いてみる。
『月森くん?リハーサル中にごめんね。さっき、大学から連絡が入って、手続きは早めに来てほしいって。よくわからないけど、午後には行った方がいいみたいだから、これから一人で行こうと思うの。月森くん一緒に来てくれるって話だったのに、ごめんね。でも、もう大丈夫だと思うから』
―――――!
俺は、全身から血の気が失せるような気がした。
咄嗟に留守録の再生を止め、香穂子の携帯に電話をかける。
「……………」
出ない。
一体どうして。
午後から行ったというなら、もう今の時間には帰宅していてもいいはずだ。
俺は何度か香穂子に電話をした後、改めて留守録のデータを確認する。
香穂子が留守録を残したのは、俺がちょうど昼休憩に入った頃―――12時過ぎ。
もしこの後すぐに香穂子が大学へ行ったというなら、………今はもう夕方だ。手続きにこんな時間がかかるはずがない。
繋がらない電話。
一体、どこから探せば…
そうだ、大学に行ってみるしかない。
「………あれは」
急いで家を出ようとした俺の目に、緑色に光るものが見えた。
あれは、自宅の電話の留守録を告げるランプ。
すぐに家を出たいのに、というもどかしい気持ちで留守録を再生した。
もしかしたら、なんらかの情報を掴めるかと思った。
『こちら、ウィーン総合病院です。日野香穂子さんの件でご自宅にお電話致しました。ご家族の方は、至急折り返しご連絡をお願いします』
『警察です。日野香穂子さんの傷害事件に関しまして、ご家族の方に至急連絡を』
2件の留守録メッセージ。
2件目を最後まで聞かないうちに、俺は家を飛び出していた。
表でタクシーを拾い、「ウィーン総合病院まで」とだけ告げる。
頭の中は真っ白だ。
病院へ向かうまで、何も考えられなかった。
物凄い剣幕だったのだろう。
受付の女性はたいそう驚いていた。
急いで、彼女が入室しているという病室まで案内してもらう。
病室へ飛び込もうとすると、廊下にいた医師に止められた。
「その病室の患者は、今は絶対安静の状態だ。入室を許可するわけにはいきません」
「っ!離せ!俺は、俺は香穂子の―――」
「…日野香穂子さんのご家族の方ですか?」
なんとか一時的な落ち着きを取り戻した俺は、医師に話を聞いていた。
彼は香穂子の担当医らしい。
「今日の2時頃に、彼女は救急で運び込まれてきました。左腕を…手首のあたりから二の腕にかけて深く切り裂かれた状態で、緊急手術を行いました。今は縫合して、薬で眠ってもらっています」
やぶれた風船のような心に、言葉という名の空気を吹き込まれているような感覚。
「加害者についての詳しい報告は警察から受けて下さい。香穂子さん自身は話ができる状態ではないので帰してしまいましたが、今…」
「腕は………」
「はい?」
「腕は動くようになるのか?!彼女は………彼女は、ヴァイオリニストなんだ!」
俺は医師につかみ掛からんばかりの勢いでまくし立てた。
医師は少し唸りながら答える。
「幸い、傷は神経には至っていませんが…。以前のように動かすことができるまでには、リハビリを重ねてかなりの時間が」
「―――――!」
目の前が真っ暗になった。
彼女はヴァイオリニストなんだ。
昨日の夜、あんなに美しい旋律を奏でていたじゃないか!
なぜ!
「………ッ」
「月森さん!」
俺は香穂子の病室の扉を激しく叩きながら叫んだ。
「香穂子!………香穂子!」
「月森さん!落ち着いて下さい!おい、ちょっと誰か―――」
医師に羽交い締めにされても、俺は病室の扉を叩きながら彼女の名前を叫ぶことをやめなかった。
やがて、数人の医師や看護士がやってきて、俺を取り押さえる。
遠ざかっていく香穂子の病室。
「彼女に………彼女に会わせてくれ!………香穂子ッ………!」
警察の話では、
香穂子が切られたのは大学内でのことだったらしい。
白昼、周囲に人が大勢いる中での犯行。
それゆえ、香穂子も油断し、抵抗もままならないまま左腕を切られた。
犯人はもちろん―――あの女。
香穂子に嫌がらせを続けていた女だ。
俺は、今までのことを警察に話した。
香穂子が嫌がらせに遭っていたこと。
大学を休ませていたこと。
それを聞いて、警察はこう語った。
きっと、犯人は俺への好意、俺と香穂子を別れさせるという意志よりも、香穂子への憎しみだけを募らせていたのだろう、と。
今まで嫌がらせでその鬱憤を晴らせていたものが、香穂子が大学を休むことで、鬱憤を晴らす対象がなくなり、蓄積され―――
今回の凶行に至ったのだと。
刃物を所持していたことから、今回の犯行は衝動的なものではなく、計画的なもの…
香穂子を目にすれば、いつでも犯行を行えるような状態だったのではないか、と告げた。
俺は自宅で、一人頭を抱えていた。
なぜ………。
俺は、わかっていたはずなのに。香穂子の身に危険が及ぶことを。
それなのに、なぜこんなことになった?
あの時、香穂子に大学を休ませていなければ。
あの時、俺が香穂子の電話に応じ、彼女が一人で大学に行くことを止めていれば。
彼女は………。
悪いのは加害者で、あなたが罪悪感を抱えることはありません、などと警察は言っていたが。
俺は、自分を責める以外考えられなかった。
俺のせいで。
俺のせいで、彼女の音色は失われた―――――
医師から処方された鎮静剤を飲み下して、俺はそのまま眠りについた。
数日後。
香穂子の面会が許されたことを知り、俺は彼女の病室へと向かった。
「あ、月森くん」
彼女は個室の病室の中、左腕に痛々しい包帯を巻かれた状態で、姿を現した俺を見た。
見舞いの品すら持っていくことに気が回らなかった俺を、いつもの表情で見つめていた。
「香穂子…」
「月森くん、ごめんね。心配かけて」
「すまなかった。香穂子、俺は…なんということを。君を、こんな目に遭わせて…」
彼女を目の前にして、俺の口からはそんな言葉しか出てこなかった。
作品名:immortal lover 作家名:ミコト