immortal lover
「君に、日本に帰ってほしいと思っている」
「………うん」
俺の言葉を受けて、彼女に動揺の表情は見えない。
やはり、わかっていたのかもしれない。
「君の音楽は、この地でないと成し得ないものだろうか」
「ううん。日本でもいい大学があって、ちゃんと音楽ができること…わかってる」
「…そうか。俺の音楽は、この地でないと成し得ない」
「………うん」
「君の音楽が日本でも成し得るものだというなら…。君には、帰国してほしい。この地で俺のそばで音楽を続けることは…。君にとって、危険が伴う」
「………」
「今回のことで、君に傷を負わせてしまったのは、俺のせいだ。俺の近くにいたせい…だ」
これから、何が起こるかわからない。
次は、彼女に傷を負わせるどころか、命を奪われる危険にさらしてしまうかもしれない。
ガードマンなど雇ったところで、意味があるとは思えない。
俺が、常に香穂子のそばで、香穂子を守ってやることができなければ。
それができないのなら、俺は常に香穂子の身に危険が及ぶ恐怖にとらわれながら日々を過ごさなければならない。
この地では。
だが、日本なら話は別だ。
日本には、彼女を守ってくれる人間がたくさんいる。
家族や、友人―――。
俺一人より、余程頼りになる人間がたくさんいるのだ。
「…君を守る方法を、いくつも考えた。しかし俺には、俺が音楽をやめる選択肢だけはどうしても選ぶことができなかった。君が言ってくれたように、ヴァイオリンは俺の命だから」
俺に考えられる、香穂子を守ることができる方法はたったひとつ。
香穂子に帰国してもらうこと―――ただそれだけだった。
「君を逃がすことしか考えることのできなかった俺を、………許してほしい」
「………」
ヴァイオリンと、香穂子。
天秤にかける日など、こないと思っていた。
しかし、実際にそれを考えなければいけない時…。
俺は、ヴァイオリンを選んだ。
君を守るという名目で、
結局俺は、ヴァイオリンを選んだ―――
「…わかった。うん、月森くんの言う通り、私日本に帰るよ」
「………!いいのか…?」
まさか、こんなにあっさりと承諾の言葉を聞けるとは思わなかった。
しかも、彼女は笑顔で。
「ありがとう、月森くん。私のこと、たくさん考えてくれて…。私にもね、月森くんがいるからウィーンにきた、ってところがあったんだ。…私の音楽を成し遂げられるのは、ウィーンでないとだめなのか、疑問に思ったこともあった」
「香穂子…」
「月森くんに言われて、背中を押された感じ。………うん、私…帰国する」
「香穂子、俺は」
「月森くん…。日本に帰る意志はないんだよね。おそらく、一生」
「………!」
そこまで読まれているとは、思わなかった。
「私も…。帰国したら、二度とウィーンには来ないつもり」
それは
永遠の別れの意味する言葉。
俺にもわかっていた。
この話をすれば、彼女はそう言うだろうと。
「………君にはわかっていたのか。俺が、何を話すかも、何を考えているかも全て」
「うん。…月森くんも、わかっていたでしょう?」
俺は鞄を開け、一枚のチケットを取り出した。
明日の日付の、航空券。…日本行きの。
「これを」
「よ、用意してくれたの?」
「ああ。もし君が俺の話に頷いてくれたのなら、すぐにでも帰国してもらった方がいいと」
「荷物は…」
「今日纏められるものは、纏めてしまおう。後は、俺が送る」
「…ん、それはいいや。今纏められるものだけで。どうせ実家にはいろいろ揃ってるし、大丈夫」
「…そうか」
香穂子はおもむろに立ち上がり、早速荷物の整理を始めた。
俺もその後を追い、左腕が不自由な香穂子の手伝いをする。
荷物を纏める間、俺たちはずっと無言だった。
「ふー。これでよし、っと」
荷物を纏め終えて、香穂子は初めて言葉を発した。
俺もそれにならって言う。
「疲れただろう、香穂子。もう休むとしよう」
「そうだね。手伝ってくれてありがとう、月森くん」
「…いや。明日は公演があるから、見送りには行けないが…。ガードマンに家に迎えにくるよう手配しておいた。だから安全面では心配はいらないと思う」
「が、ガードマン?!本当にいるんだ、そんな職業の人!」
香穂子は笑っていた。
「電気、消すぞ」
「うん」
部屋の明かりを消し、ベッドへ潜り込む。
久しぶりの、香穂子に温められたベッドの中。
久しぶりなのに、最後の温もり。
俺は、何か発したら止められなくなってしまいそうで、ただ黙って暗がりの中、背を向けた香穂子を見つめていた。
「………ね、月森くん」
驚いた。
香穂子は俺に背を向けたまま、続ける。
「好きなのに、離れ離れになるって。ドラマや小説の世界ではよくあるシチュエーションだけど…私ね、そういう話を目にするたびに、なんで好きなのに離れちゃうのー!ってすごい疑問だったし、理解できなかったんだ」
「………ああ」
「でもね。本当に、あるんだよね。いくら好きでも、いくら愛していても離れなきゃいけないこと」
言葉尻が震える。
…泣いているのだ。
「月森くん」
香穂子は、俺の方に体を向けた。
暗がりの中、香穂子の頬は、確かに涙で濡れている。
「本当はいやだ…。ずっと月森くんの近くで、月森くんのヴァイオリンを聴いていたい。月森くんと離れたくなんかない…」
頬に冷たいものが伝って、俺は驚く。
頬に伝ったのは、俺自身の涙だった。
「愛してる、月森くん。ずっとずっと、月森くんのこと愛してる」
「………俺、も。ずっと君だけを愛している。離れても、ずっと」
自然と二人の唇は重なり、やがて二人の体が重なっていく。
二人、泣きじゃくったまま愛し合った。
互いの体に、一生消えないくらいの自分を刻み付けるように。
俺の涙は香穂子の頬に降り注ぎ、濡らした。
君を愛している。
ただその一心で………
俺は、香穂子を激しく抱いた。
「おはよう」
目の上に冷たいものがあてられ、何度か覚醒しかけていた意識を、ようやく彼女の声で覚まされた。
「………?おはよう。これは…」
目を開けたはずが、視界は真っ暗だ。
手を目にやると、冷たいタオルのようなものがのせられていたことに気づいた。
「ふふ、今日は公演なのに腫れた目で舞台に立つわけにはいかないでしょ。だから、冷やしたタオルをあててたの」
「…そうか、すまない」
昨日の自分の号泣っぷりと、香穂子の用意周到っぷりに、今更照れる。
ひんやりとしたタオルは、熱くなった頬さえも冷やしてくれた。
「あっ、まだ時間あるから大丈夫だよ。今7時」
「そうか…」
あまり眠れなかった。
彼女も同じだったのだろう。
と、そこまで考えて飛び起きた。
「すまない、香穂子。朝食を」
「ああ、大丈夫大丈夫。昨日の残り物、チンしておいたから。それくらいならできるから、大丈夫」
「………そうか」
とりあえず身支度を整え、ダイニングへ向かった。
ダイニングには、大きなスーツケースが用意してある。
作品名:immortal lover 作家名:ミコト