連理
「……変わっちまってるだろうよ」
元親が同じく、自然と密やかな言葉で呟くように返せば、家康の肩がぴくりと動いた。
「俺が会ったあいつは、お前が知ってるあいつとは、違うんだろうよ。……だが確かに、何にも隠さねえ、奴だった。……痛え眼ェした奴だった。あんまり見ていて痛えからよ、俺もそっちに気がいっちまって――」
自分の心は死んだのだと、言った。
今元親の横にいる男の首しか要らないのだと、鮮烈な眼にたったひとつを映していた。
「……あいつに会ってなかったら俺ァ、サヤカやお前の話を聞く余裕なんざなかったかもしれねえなあ」
言葉にすれば、確かにそうだったのではないかと思える。似た境遇にありながら、さらに危うげな相手を前にして、元親は少しだけ自分の復讐心から気を逸らして客観視することができた。
「…………そうか、」
家康は小さく頷いた。
「そう、か」
お前が、たすけてくれたのか。
きっと口にしたなら全身を切り刻まれるに違いない言葉だとわかっていながら、家康はそれを胸に抱え込んだ。その家康の耳に、苦い元親の声が滑り込む。
「本当に、なあ。お前のことしか考えてねえような、奴だったぜ」
――家康はそれをも静かに抱え込もうとして、結局出来なかった。
沈める代わりに口を開いた。
「元親。豊臣が全盛を誇った時代は、辛かったか?」
突然の問いに、元親はにやりと笑って答えた。
「あんな猿と雉に俺をどうこうできるもんかよ。まァあんな奴等が天辺にのさばってんのを見るのはいい気分じゃあなかったがな」
家康は思わず、という様子で笑った。
「お前らしい!が、三成の前で秀吉公の話にならなくて良かったな。流血沙汰ではすまんぞ」
そして家康は、淡く微笑みながら続ける。
「ワシも、辛くはなかった。……ただ必死だったな。秀吉公と半兵衛殿の下で働きながら失態を犯すわけにはいかないから、初めのうちは緊張しっぱなしでなあ。毎日毎日、色んなことを考えていた。……あいつは何も考えずに忠誠を誓えと散々言ってきたが、そういうわけにもいかなくてな。秀吉公の描く未来の姿を考え、そこへ辿り着くために取り得るであろう道筋を考え、半兵衛殿の組む戦略について考え、……泰平の世とはそもそも何なのかを考えたりもしたし、戦場で拳を振るっておきながら何を得られるのかと考えて、――そうして残った時間には三成のことばかり考えていた」
家康の声音は淡々として落ち着いていた。元親は、その顔を見ないでやった。
「不思議だった。初めて見た時には何て非道な男かと思ったんだ。ワシが認められずにいたものばかりを振りかざす、どうあっても相容れない男。……なのにどうしてか、あいつは真っ直ぐなんだ。歪んでいるのに歪んでいない、ワシには悪しき事だとしか思えぬものを平気でこなしておきながら、周囲に阿らず妬まず驕らず地位も名誉も何も欲さずにただただ一途に――――あいつを見ていると時々、ワシのほうがよほど腹に醜悪なものを飼っているような気になった。
不思議だったんだ。
ただひとりがいればいいという生き方を、ワシは知らなかった」
あれはとても歪んで見えたのに、
時々あれが欲しいような気すら、した。
何だ。
お前ら、――同じじゃねえか。
元親が思ったのは、そんなどうしようもない事実だった。
家康は奔流のように流れて行った己の感情を追いかけることはせず、それきり器用に栓をした。そして伸びをしながら元親へと向き直り、打って変わった朗らかな声で言う。
「そういえば、伝えていなかったな。元親」
傷を刻むたびに大きくなった掌を差し出して、家康は笑う。
「ワシと一緒に来てくれないか」
その笑みに一切翳りのないことが何だか異様にもどかしく、元親はその掌に拳を打ちつけた。
「今更なこと言ってんじゃねえよ!……俺は、あいつらを許さねえ」
家康はその声に纏わりついた憎悪にかすかに眉根を寄せた。だが、国が壊滅したという事実を許せと、友に対して言えるほどには傲慢になれない。あの男に対しても、家康は一度たりとも、己を許せと言ったことも思ったこともなかった。
おぞましい計略に自身も巻き込まれかけたことを思い、ひそかに拳を握る。
だからこれで、最後だ。あの恐ろしい謀将二人と――あの男に決着をつけ、ここで、憎しみの連鎖を止める。
「毛利、大谷……!縄くくりつけて暗い海に引き摺りこんでやるぜ……!」
故意に名を外してみても意味はない。それでも互いの眼にある人影に、気付かぬふりをする。あの男を止める術など互いに持ってはいないことを、二人ともが知っていた。
家康はあの男の仇にしかなれず、元親はもはやあの男と憎しみを共にすることはできず。
それでも手を伸ばそうとしたならば、差し伸べた腕ごと斬って捨てられよう。
そしてあの男が立ちはだかる限り、家康はそれを打ち倒さねばならないのだ。
「……なァ、あいつは止まらねえよな」
ふと元親が呟いた。二人にとっては答えのわかりきった問いだった。
「何があったら止まれるんだろうな」
それを、未だ誰も知らない。