残さず召し上がれ
呼び鈴を押す。ともすればボタンごと壁に減り込ませそうになるので、極力そっとそれを押す。
ドア横に嵌ったプラスチックのプレートの名前は、平和島。自宅であるにも拘らず、ましてやポケットの中には握り締めた鍵があるというのに。わざわざそのボタンを押すのは―――
「おかえりなさい!」
そう言って嬉しそうに出迎えてくれるひとがいることを知っているからだ。静雄はエプロン姿で迎えてくれた少年の黒いこうべをかき混ぜるように撫でた。
「……ただいま」
一人暮らしである普段は言わない帰宅の挨拶を口にするのはどこか照れくさい。熱くなった顔を誤魔化すように彷徨わせた視線をどうにか下方へと移すと、同じように照れて顔を紅くした少年と視線がぶつかった。
「あの、先にお風呂入っちゃってください」
「……あ?」
「…っ、その、沸かしてありますので」
その間に食事仕上げちゃいますから、ね?……と、そう言って静雄の手からセカンドバックを抜き取り洗面所へと背中を押す。その甲斐甲斐しい様はまるで新妻のようだ。
行き着いた思考に静雄はますます温度の上がった頭をぶんぶんと左右に振った。通い妻という単語も浮かんだ。間違ってはいない……いないのだが、言葉にするとどうにも気恥ずかしい。
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市販のもとをご飯と混ぜて、大皿に敷き詰めた後に錦糸卵と海苔を散らす。さらに、ちょっとだけ贅沢して買ってきたいくらを乗せればちらし寿司の完成だ。よし、とひとりごちて、火にかけているフライパンの中の油に小麦粉を少し落として温度を確認し、油が撥ねないように気をつけながら鶏肉を落としていく。
「お、うまそう」
「!…もう上がったんですか?」
背後から掛かった声に振り向けば、濡れ髪をがしがしと拭きながら覗き込んでくる静雄の姿。下はスウェットを穿いているが、細身だけれどしっかりとした硬い胸板だとか腹筋だとかは目前に晒されている。それに何も思わないでもないけれど……努めて考えないようにしながら帝人は「もう少しですから座っていてください」と声を掛ける。
「……もっとゆっくり入っててくれればよかったのに…」
仕事で疲れているだろうから、ゆっくり入浴してくればいいのに。帝人が呟くと「そう邪険にすんなよ」と苦笑が降ってきた。
「そんなつもりじゃ!」
「わかってる」
宥めるように大きな手のひらが額と頭を撫で上げていく。静雄さんって僕の頭撫でるの好きだよなあ……と考えながらも帝人は黙々と手を動かす。
あちい、と言いながら新聞紙の上にあげたばかりのからあげを掠め取っていく指先を見咎めて、帝人は声をあげた。
「あ、だめです摘み食いは!」
「かてぇこと言うなよ」
もう! と膨らませた頬も、長い指でつつかれてしまえばすぐに緩んでしまうのだからどうしようもない。
「摘み食いするくらいなら冷蔵庫にポテトサラダがありますから持って行って先に食べててください」
「いや、待ってる」
きっぱりと返ってきた言葉に、帝人は暫し言葉をなくして瞳をしばたたかせた後、ほんのりと頬を染めて微笑んだ。
「じゃあ、出来たものだけ運んで待っててください。もう少しで揚げ物終わりますから」
「うまかった」
ごちそうさま、の言葉にお粗末さまでした…と頭を下げる。綺麗に平らげられた皿を見て、帝人は満足げに顔を綻ばせた。
誕生日、ということと静雄の好む味覚から。今日のメニューのコンセプトは『お誕生会』だった。散らし寿司にお吸い物。レタスを敷いた上に盛り付けたポテトサラダ、揚げたてのからあげ。献立の内容はほとんど、自分が幼い頃に母親が作ってくれたものだ。味付けも帝人の家のもの、となってしまっていたのだが、空になった皿を見るに、どうやら気に入ってもらえたようだと安心する。
食器を片付けながら「お茶でも淹れましょうか?」と尋ねた声に被せるように「なあ、」と呼びかけられる。
「ケーキは?」
「……へ、」
一番重要なものがまだ出てきていないだろうと、言外に問われて。帝人は瞳をしばたたかせる。
まさか、催促を受けるとは思ってもみなかったのだ。
もちろん、ケーキも作るつもりだった。
作ろうと思って、そういえばいつもはどんなケーキを贈られているのだろう、食べているのだろう……と気になって。訊ねてまわった。彼の上司であるトムに、弟である幽に。そして、友人である首無しライダー―――セルティに。
あのあと。メールを送った後。彼女はちょうど近くまで出ていたと、帝人と合流し。どうせだからと家へと招待してくれた。ケーキを買った場所は、池袋の西口のほうの店だが、あいにく店名までは覚えていない…が、新羅なら知っているだろうからと、そう述べて。
眼鏡に白衣の闇医者は、確かここだったと思うよ~と検索したパソコン画面を見せてくれた。ファンシーな白い壁の……それこそ、杏里のような可愛い女の子なら似合うであろう、ちいさな街のケーキ屋さん。もちろん店内は女性客ばかりで、内心落ち着かなくてそわそわしながらも。どうにかテイクアウトでひとつケーキを買って帰った。そのふわふわのシフォンケーキはもちろんとても美味しかった。
次の日には幽に聞いたデパ地下の店へ。色とりどりのデザインのケーキに目移りしたが、結局いちばん正統派の苺のケーキに落ち着いた。そのまた次の日は銀座まで足を伸ばして人気らしいその店の行列に並んで苺のタルトを買った。
どちらもとても美味しくて、……とても美味しかったので。
フォークを皿に置いて、帝人はぼんやりと天井を仰いだ。綺麗なケーキとは不釣合いな、染みだらけの木板の天井を。
まさかプロのパティシエに敵うなんて思ってはいない。
ケーキなんて初めて作るのだ。うまく出来るかもわからない。
(それでも、いちばん美味しいと思って欲しいだなんて……僕のわがままだよね)
味覚は主観的なものだからどうしようもない。美味しいですか?…と訊ねればきっと「美味い」と答えてくれるであろうことが、余計にいたたまれなかった。
いくら甘いものが好きだとしても、ホールケーキを3つも平らげた後に、更に出てきたケーキを美味しく食べられるとは、帝人にはどうしても思えなかったのだ。
「け、ケーキはもう今日は沢山食べたでしょう? だから、僕のはいいかな、って―――」
「食ってねーよ」
「……え?」
「今年は誰からも貰ってねえ……ケーキは」
どうして、と。帝人は零れんばかりの瞳で静雄を見上げる。
「……竜ヶ峰が作ってくれるんだと思って、断った。トムさん達からのも、幽のも、新羅とセルティのも、全部」
お前の作ったの以外いらねぇから、などと。どんな殺し文句だろう。温度の上がっていく顔を隠すように、帝人は深く頭を下げた。
「ご、ごめんなさい……」
「竜ヶ峰のケーキ…」
「あ、あの。材料は買ってあるので、あした!明日作りますから」
俺の誕生日は今日だ。拗ねたような声でぼそりと呟かれてしまうと、申し訳ないような、嬉しいような想いで胸の奥が引き絞られる。
「帝人のケーキ……」
「……済みません」
白いシャツの袖口をきゅ、と掴む。
「みかど……ケーキ…」
ごめんなさい。何度目かの謝罪の言葉の後に、袖口を掴んだ指先が力強い掌に絡めとられた。