いつか愛になる日まで
「今日はすみませんでした」とカカシがまた謝った。やわらかい口調はいつもの通りだ。
内心驚いていたが、普通の声が出せてホッとした。
「任務ですから仕方ないですよ。白菜と豚の重ね煮なんていつでもつくれます」
いえ、そうではなくて、とカカシが苦笑する。
「思ったよりカッとなりまして。私も修行が足らないなーなんて反省しました」
「?」
「あなたとヤマジさんには申し訳ないことをしました。教員室では居心地悪かったでしょう、私のせいで」
「ああ、夕方のことですか」
「ええ。実はあんなこと言うつもりはなかったんです。タッパーをお返しすることを忘れたことに気づいたので、教員室まで戻ったときにお2人の楽しそうな会話が聞こえてカッとしました」
動揺するなんて、ね、なってません、とイルカの目を避けるようにしてカカシは言った。
「怖がらせてすみません。紅にね、何殺気立ってるのって言われてハッとしました。あなたの前ではお気楽で、言動のおかしな人だって思われていたかったのになぁ」
「どうして、そんなこと・・・」
「あなたがね、私のことで慌てたり、怒ったり、困ったりするのが見ていて面白かった。あ、言い方が悪いな、誤解しないでください。単純に嬉しくて楽しかったんです」
眉を寄せたイルカを見て、カカシはすぐに言い直して続けた。
「時々、あなたの姿を見ました。授業をしていたり、子供を怒ったり、一緒になって笑っていたりして楽しそうでした。あなたが私のことを知らない昔々の頃です」
カカシは腰に手をあて下を向くと、はぁっと大きくため息をついた。この人でも何か悩むことがあるんだろうか。迷うことがあるんだろうか。イルカが見つめる先で、カカシは何かを吹っ切るように顔をあげて話し出した。
「ご存知の通り私は暗部に所属していて、いつも任務から戻ってきたときは子供の声もうるさく感じるくらい疲れていて、今度こそ任務を引き受けるのはやめようと思ってばかりいました。でもある日思ったんです。ああ、守ることができて良かったって。里の人や子供たちが楽しそうに笑っている姿を見たときに気づきました。誰もが役割を持っていて一生懸命生きている。それなら自分の役割は与えられる任務をこなすことだと思いました。幸い、私は里の期待に応えられるだけの能力を持っていましたから」
驕るでもなく淡々と事実を述べるカカシに、何の話だろうと思いつつイルカは黙って頷いた。何か大事なことを聞いているのだと思った。
「それからはかなり無茶な任務にもなるべく応じるようにしてきました。どうしてもスキル的に一部の忍しかできない任務というものもありましたしね。与えられるだけではなく、自ら引き受けて任務もこなすようになったので当然忙しくなりました。恨まれることもたくさんやりました。私のことを殺したいと思っている人も多いでしょう。でも後悔はしていませんでした」
過去形だった。
「今は後悔しているのですか?」
軽く笑ってカカシは頭を振った。
「いいえ、今も後悔はしていません。各国の賞金首リストがあるでしょう? 俗に言うビンゴブックです。あれに名前が載ったときは嬉しかったですよ。敵は大抵私を狙ってきましたからね、簡単に死ぬ気もないですが同僚や部下の危険が減ったと思いました。・・・ああ、なんだか話しすぎていますね、寒くないですか」
そう言われて、寝巻きの上にカーディガンを羽織っただけだったのを思い出した。手が冷えているのは寒さのせいだけではない。
「大丈夫です。カカシさんこそ、お時間はいいんですか?」
「ああ、ええ。優秀な部下ばかりですから。体裁として私が隊長なんてやってるんですよ」
肩をすくめるカカシにイルカは、そんなことはないでしょう、と言った。心から言った。
そうだといいんですけどね、と軽くカカシが答えるのに、口惜しい気がする。
「なんでこんな話してるのかなぁ」とカカシが困ったように苦笑したので、イルカは「続けて話してもらえませんか」と真剣にお願いした。こんなときじゃなかったら家の中に招き入れていた。座布団とお茶を用意して、なるべく居心地よく感じてもらえるように最大限の努力をしたのに。
言動のおかしな上忍はどこにもいない。他人より能力が高い、でも27歳の等身大の男が目の前にいた。
「えーと、じゃあ、あと少しだけ付き合ってください。まぁ、そんなわけでがむしゃらに任務をこなしました。休みをとると、その分誰かが自分の代わりに狙われるんだと思って、休むのも気が引けたくらいです。その頃から女性関係も派手になりました。・・・すみません、こんな話」
「いいえ、続けてください」
「いろいろ言われていますけど私は高級娼館の、その中でも一握りの女性しか相手にしませんでした。身元を把握できることが条件だったんです。いつ、誰に殺されるかわかりませんでしたからね。私は任務をこなしているか、娼館にいるかという極端な生活をしていました。空気さえ鋭く神経を張り詰める任務の間に温かく柔らかい体に接することは必要不可欠でした。自分でもギリギリだなと思うことが度々あったんです」
だからと言って、あんなただれた生活がいいとは思っていません、とカカシは自嘲気味に話して少しの間黙っていた。イルカはそんなカカシをじっと見ていた。
「こんなろくでなしの私でも知らないうちに精神的な疲労がたまったんでしょうね、死にかけました」
「えっ?」
「同僚の機転で幸いかすり傷程度で済んだんですが、接近戦の最中に足が動かなくなったんです。ほんの1,2秒だと思います。けど、それだけの時間があれば殺されるには十分でしょう? まぁそのときはそれで済んだんですけど、すぐ後の任務でも足が動かなくなったんです。そうすると今度は自分が信じられなくなります。足が動かなくなったらどうしようと思うと積極的に敵に近づけなくなりました。立派な足手まといです。火影さまには正直に話して、暗部だけではなく忍であること自体をやめたいと言いました。もうやっていく自信はなかったですから」
カカシは寂しげにうすく笑った。
「私は山奥にある火影様の別荘に連れて行かれました。別荘と言っても古い小さな小屋ですよ。そこで療養士に世話をされながら半年ほど過ごしました。里に戻っても任務を受ける気はありませんでした。できるとも思っていませんでしたし。毎日、ぼんやり過ごしました。本当に何もしなかったですね」
イルカの体はかなり冷えていたが、話をさえぎろうとは思わなかった。
子供たちのいたずらにゲンコツを落としていたとき、受付事務でてんてこ舞いだったとき、近所の人とゴミ出しで意見が食い違ったとき、3日続けてカレーは食べたくないなぁとうんざりしていたとき、それは何気ない日常で、誰かが必死で支えている結果なのだということは遠い現実だった。
遺体や骨、それどころか形見の品だけが帰ってくる同僚を思って流した涙に嘘はない。迷いなくそう言い切れるけれども、この罪悪感、焦燥感、やるせなさはなんだろう。ともすれば崩れ落ちる平和な日々に感謝していたか? 笑ってすごせることに感謝の気持ちを忘れてはいなかったか?
思い悩むように唇を噛み締めたイルカを見ながら、カカシは穏やかに続けた。
作品名:いつか愛になる日まで 作家名:かける