おとうさん
お父さんは僕の手を引いてずんずんと店に入っていって、更に店の二階へ上がっていく。お父さんは僕の汗ばんだ手をしっかりと掴んでぐんぐん引っ張るようにして二階へと上がっていく。裸電球がいくつかぶら下っているだけの暗い部屋の奥には、ずんぐりとした体に髭の生えたおじさんが座っていた。けれどお父さんは構わないといった様子で勝手におじさんの向かいの椅子に腰掛けて、僕から手を離して僕を抱きかかえて、自分と同じように座らせた。高い椅子に足が届かないことや、知らないおじさんの向かいに勝手に座ってしまった不安にわざと大きく足をぶらぶらとさせて、僕は俯く。おじさんがまじまじと自分をみている気配が伝わって、僕は更に小さくなっていく。
「遅くなりましたか。堀田さん、これが私の息子です」
「・・・立石、お前こんな場所にこんな子供を連れて来てはいけないだろう」
子供を連れてくるなら違う店にしたのに、とおじさんが溜息を漏らして、お父さんがくっくっくと喉で笑った。おじさんはどうやらお父さんの知り合いらしいということで恐る恐る顔を上げる。おじさんは僕をみてその細い目を更に細めて「利発そうな子だ」と顎を撫でた。「アレが婦人会の葬儀の手伝いなどに行ってしまったものだから、家に置き去りにされた所を連れてきたんですよ」とお父さんは僕の頭に手を置いて「挨拶はどうした?」と促して、僕はたどたどしい小声で自分の名前をぽつりと答えて、頭を軽く下げた。
「いくつになるんだ?」
「来年は小学校にあがりますから、5歳です」
「そうか。もう5歳になるのか」
「終戦の年に生まれましたからね。数えには調度良い」
「・・・。そうか、まだ5年か」
「ええ、たった5年ですよ。貴方はまだ潮の匂いがしますね。私はすっかり抜けてしまった」
「政府の仕事だったか?」
「堀田さんは造船所でしたね」
「ああ。陸(おか)にあがってもまだクズ鉄と重油に塗れている。・・・っと、何か頼んでやらないとな。何が食べたい?家庭料理なら一通りは揃っていると思うが・・・オレンジジュースなどあったかな?」
最後の質問はお父さんに投げたらしい。お父さんは、まぁ、そういうものもあったと思いますよ、と答えながら僕をみる。二人の大人の目が僕に向いているのを感じて、僕はまた小さくなる。「小心者でしょう」とお父さんが呆れたように笑い、おじさんが「顔はお前さんに似ているが、気性はふみさんに似たんだろう。優しい子なんだろう」とまた目を細めて微笑んだ。そんな事を見ず知らずの人に言われることもだけれど、お父さんが僕について何か意見を述べるということも珍しくて、僕は今よりもずっと子供であったというのにますます縮こまってもじもじと膝をすり合わせた。
お父さんは歩いていた女の人に声を掛けると、お酒を頼み、オレンジジュースやいくつか僕が食べられるようなものや肴を頼んでまたおじさんに向き直って僕にはさっぱりわからない話を続けた。
「因果なものだな」
ふいにおじさんが呟いた。おじさんの目はどこを見るというわけでもなく、僕の顔を眺めながらそれでも違う誰かをみているような遠い目をしていて、お父さんはお酒を少し飲んでからまた皮肉のような、卑屈のような、そんな笑みを浮かべる。
「せっかく本土での後方勤務にしてやったというのに、空襲で死んでしまうのですからこれは私の手の及ぶ領分でありません。米田の家でも死んだ息子の嫁という食い扶持は邪魔だったのでしょう。子でも孕んでいればよかったのでしょうが、そういうこともありませんでしたから赤の他人です。まだ若いんだから新しい男を見つけなさい、と都合よく一人戦火に放り出されて途方に暮れながらも昔の女中の家に居候していると聞きつけ、また手元に戻しました。アレは本当にすまなさそうな顔をしていましたが、そうなってはいよいよ私も面倒をみてやろうと思いました」
今では私なりに日にも当てずに大事にしているつもりです、とお父さんは微笑んだ。
「・・・最初から、そうしてやる事はできなかったのか?」
「一度手放したものがまた手元に戻ってきたのですから、それだけ縁があったんでしょう。縁があったのだから、もう他の女とは切りました。それでもう沢山じゃありませんか」
僕は家で使っている箸よりも太い竹箸を上手に握ることができず、苦労しながら鯵の開きをつつきまわしてはちいさくなった鯵のかけらを口に舐るように放り込んではまた鯵をほじくっていた。なんの話かは分からないけれど、でも僕が真剣にその話に耳を傾けているというのはお父さんとおじさんにとって不都合だというような気がして、僕は退屈しているようにするためにこの哀れな鯵をつつきまわしていた。真っ白な鯵の目玉が光を失い、ぽっかりと空洞のような眼を向けて、開かれた腹をこんな子供につつきまわされている。僕はそれを憂鬱に思いながら、それでも切実な気持ちで鯵をつつきまわしては不器用にハラワタを穿り出してちょっと舐めてみる。えぐいような苦味に顔を顰めると、隣からお父さんの呆れたような声が降ってくる。
「お前、腸なんか子供が食って旨いもんでもないだろう。それにそんなにつつきまわして。ほらこっちで身をより分けてやったからこれを食べなさい」
お父さんは自分の皿の鯵の身だけを話しながら綺麗に取り分けていた。
その白い身の山を箸と指先で摘まんで僕の麦と米が混じった茶碗の上に乗せてくれる。僕はなんだかそうするべきだ、と思っていかにも子供らしくすっかり冷えた米と麦とそれから鯵をいっぺんに沢山口の中に放り込んでいかにも子供のようにむしゃむしゃと租借した。すると今度はおじさんがなんだか嬉しそうに笑って、お父さんが居心地が悪いように顎を引いた。
「お前もバツが悪くなるとよく魚をつつきまわしたな」
「やはり息子ですからどこか男親の私に似てるんでしょう」
お父さんが目を細めて、僕をみて笑った。満足したような目をしていた。
僕はなんだか首すじがカッカと熱くなるような気がした。
――――息子。僕はやっぱりお父さんの息子なんだ。僕は、お父さんの息子なんだ。
それが俺が父さんから感じたたったひとつの親子らしい記憶でした。
今にして思えば、俺は父さんを嫌ったり、怖がったりなんてしていなかった。それどころかどこか慕っていた。よく俺の相手をしてくれたのは母でしたが、本当に慕っていたのは父さんかもしれない。畏怖していたかもしれないが、それはきっとどこか羨望するあまり近寄りがたいもののように感じていたのかもしれない。父さんの方でも子供の時分の俺が遠巻きに父さんをみている事くらい、あの父さんの事だから気づいていただろうけれど。軍が名前を変えただけの国防海軍で何かきな臭い仕事をしているという事は一端の男になってから薄々気づいていたが、それでも俺は父さんを慕っていた。