その冬
三が日は雑煮を食べ、餅を食べ、3人で苦心したおせちを食べ、来客をもてなし、
また、日頃世話になっている道場や赤べこ、小国診療所などを訪ね、
合間には正月らしい遊びをしたり、忙しさの中にも穏やかさのある、
そんな日々を過ごした。
その間は稽古もなかった。
とはいえ、薫も弥彦も剣をとることが日常になってしまっているので、
それぞれに鍛錬をした。
剣心については2人は知らなかったが、
2人には見つからないようにいつもの竹やぶで精神を研ぎ澄ませていた。
4日からは稽古を再開。
それと同時に弥彦は荷造りを始めた。
といっても、弥彦1人、たいした荷物があるわけではないのは左之助同様だった。
もともと弥彦は部屋に物を置きたがらなかったし、散らかす癖もなかった。
だから長持1つに収まりきる程度のささやかな弥彦の荷物は、
柳行李2つ3つに移されてそれでおしまいだった。
破落戸長屋に行けば左之助が残していった長持がある。
あとは行李から向こうの長持に移し替えるだけだ。
よって、柳行李がある以外には日頃の弥彦の部屋と引越し前の弥彦の部屋と、
特に変わりはなかったのだが、それでもそこに住む人の気構えが違うせいだろうか、
薫は部屋の中ががらんとしたような印象を受けた。
「…本当に行っちゃうのね。」
「は?何を今更。」
弥彦は呆れ顔をした。
「年の瀬にお前、率先して長屋の掃除してたじゃねーかよ。」
「それはそうなんだけど…。」
薫のどこか煮え切らない様子に弥彦はため息をついた。
(お邪魔虫だから出て行けって左之助は言ってたけど、
俺が出て行っても薫がこんな様子じゃ、あんまり意味ないんじゃ…。)
「どうして、出て行くことにしたの?」
弥彦の眉が軽く上がった。
「どうして、って、あのなー。」
はあ、と、息を吐いてから弥彦が答える。
「言っただろ。左之助の出港のときからずっと考えてたって。
強いて言うなら左之助に言われたまんまだよ!」
勿論、それだけじゃねーけどな、と、弥彦はぼそりとつけ足した。
が、薫には聞こえていなかったのか、
「言われたまんま、って?」
と問い返してきた。
「だ・か・ら!」
弥彦は声を張り上げた。
「俺は、左之助に後事を託されたわけ!剣心と薫がもう離れないように、
さっさと夫婦(めおと)になるように、
俺にはそれを遂行して見届ける義務があるわけ!だから、ここを出るんだよ!」
わかったか、コノヤローと弥彦がダメを押すと、薫の頬が朱に染まった。
「め、め、め、夫婦って、そんな!私は…!!」
もう相手にするのも馬鹿らしいと思ってか、弥彦は別の理由のほうに話を移した。
「それに、これも1つの修行だと思ってるからな。
スリやってた頃みたいに底辺でガタガタの暮らしをするんじゃなく、
赤べこで働いて、道場にも通って、自活する。
剣心だって比古清十郎のところにいたときからそうやって
己を律して暮らしてたはずなんだ。俺も剣心みてーに、なりてーからよ。」
弥彦の瞳には熱い決意がみなぎっていた。
しかし、薫の耳目には後者の理由のほうも、弥彦の熱っぽい瞳も、
ろくろく入っていないようだ。
弥彦に背を向けて何やらブツブツ呟いている。
「薫…。」
弥彦の呆れた調子の呼びかけにも答えない。
「ま、俺がいなくなったら、剣心のとこに夜這いでもかけてみるんだな。
剣心だって男だし、薫がその気なら乗ってくるだろーぜ。」
「よ、夜這いって!!!」
ようやく振り向いた薫は首から耳まで真っ赤だった。
弥彦は我が師範代の幼い反応に、まずい飯でも食わされたかのような顔をした。
「お前ももう18なんだから、あんまりうぶなのもどーかと思うぜ。
友達とかいないのかよ。嫁に行った奴。
そーゆーのを見習ってだなあ…」
言い終わる前に、薫の正拳が飛んできた。
避け切れなかったのは弥彦の不覚である。
小走りに駆け去っていく薫の気配を見送りながら、弥彦は顔をしかめた。
「ったく。」
この分では弥彦が明日、道場を出ても、
しばらくは2人の関係に変化は見込めないかもしれない。
とりあえず薫には発破をかけた。
あとは剣心次第だ。
さしもの弥彦も、自身の倍以上長く生きている剣心に向かって
薫に手を出してしまえと言うのは気が咎める。
だが。
「なんだかんだ言ったって剣心も大人の男なんだし、嫁さんだっていたことあんだし、
俺が消えれば何かしら動きはするだろうよ。」
誰にともなく、弥彦はひとりごちた。
翌日の稽古が終わると、弥彦と剣心は柳行李を持って破落戸長屋へ行ってしまった。
薫も手伝おうとしたが、手は足りている、と、弥彦に断られてしまった。
1人、茶の間で自身が淹れたまずい茶をすすりつつ、薫はため息をついた。
今日から剣心と2人きり。
しかし心は浮き立つどころか沈む一方である。
気が重い。
薫とて、年頃の娘だ。
何かを期待しないわけではない。
だが、降って湧いたようなこの状況への戸惑いが、それに勝っている。
そうか。
心の中で呟いた。
年の瀬、弥彦から独立の話を聞いたときに感じたとらえどころのない気持ち。
それは戸惑いだ。
突然、この広い家に恋する人と2人きりにされてしまうことへの、戸惑い。
昨年のほんのわずかな時間、確かに薫と剣心は2人だけの時間を過ごした。
でもそのときの薫には剣心に対する恋慕の情はなかったし、
剣心のほうでもこう長く神谷道場にとどまるつもりもなかったはずだ。
だが今は違う。
剣心はこの道場を居と定めている。
そして薫は。
(私は…。)
頬に血が上るのがわかった。
すでに自分の気持ちは剣心に伝えてある。
剣心も、それを諒解してくれている。
ときには手をとってくれることもある。
もしかしたら、ご近所でもあまり付き合いのない人は、
すでに自分たちが夫婦だと思っているかもしれない。
それくらい自然に、剣心は、居る。
しかし、それと夫婦になるということはまた別のことだ。
契る、という言葉を、薫だって知っている。
薫はひそかに嘆息した。
もしかしたら、剣心に気持ちを伝えてしまったのは短慮だったかもしれない。
同じ家に住み、2人で生活していくのだ。
その相手が異性で、自分に気持ちのある人間だったら…。
契りを結ぼうという流れになってもおかしくはない…。
そこまで考えたところで、門扉が開く音が聞こえた。
はっと湯呑みを握りなおすと、茶はすっかり冷めていた。
もしかしたらひどく長い時間、出口のない考え事をしていたのだろうか。
とにかく剣心を出迎えなくては。
薫は湯呑みを置いて、茶の間を出た。
弥彦は荷物を置くなり赤べこの給仕の仕事に向かったらしい。
剣心は1人で戻ってきた。
弥彦の様子を少しやりとりすると、剣心はすぐに夕餉の支度にとりかかった。
剣心の様子はいつもどおりで、
自分のように2人きりであることを意識している風ではない。
そのことに薫はまた、言いようのない気持ちが胸底を漂うのを感じた。
(駄目だ。)
邪念を振り払おうと、薫は自室で繕い物をすることにした。
不器用な薫だが、針を動かしていると剣をとっているとき同様、
心を無にすることができると知っていた。
部屋に行けば何かしら、針仕事の素材はあるだろう。