いつまでも
底冷えの寒さに私は身を震わせた。
私の想いを体現したこの宮殿は、いささか住むには不便な点もある。特に雪が舞い散るこの季節は、あまり住み心地の良い場所ではなかった。寒さとともに足の痛みがひどくなり、睡眠を満足に取ることができなくなった。どうせ寝られないのならと、手紙や詩をしたためてみたりもしたが、言葉がカタチになることはなく、夜の闇に霧散した。そんな日がいくつも続いて、気が付くと私は寝台の住人と成り果てた。
「フリッツ」
雪の到来とともに、訪れることが少し減ったのは仕方が無いことだ。国の体現たる彼に何かあっては大変だ。側近どもにいつも口うるさくいわれるんだ!と、苦笑いをした。だから、いつも黙って抜け出してくるという。若い頃、息が詰まりそうになると、遠乗りに連れ出してくれたことを思い出す。
「フリッツ、どうだ?」
彼はいつも私と目線を合わせる。どんなときもわたしから目を逸らすことは無い。最初に見たときは、ぞくりとなにかが背中を走った。紅い瞳は、ワインのようでもあるし、血のようにもみえる。悪魔というものは、こんな瞳で人を堕落させるのだろう。こんなものが我が国の体現か。恐ろしい。
自分の将来を呪い、祖国を疎んじるあの頃の私にとって彼の存在は、粗野で暴力的な父の姿と共に畏怖すべき対象でしかなかった。
「そんなに心配するな、いつものことだろう」
「確かに過労で倒れることはよくあったけどな」
側にあった椅子を引き寄せ身軽に腰をかける。
私はベッドの中の住人だ。ゆっくりと上半身を起こす。
「ギルベルト、視察に出てるのではなかったのか」
「手紙が届いたんだ、親父が臥せってること」
「そうか、全く誰だ?余計なことを」
ギルベルトはため息をついて、頭をかいた。
「大目に見てくれよ、俺が頼んだんだ」
「私は誰かと聞いている」
じろりとにらんでみるが、彼の表情は変わらない。
「言わない。親父も俺にいわなかったから、お互い様だろ」
「…まあいい。調べればわかることだからな」
ふんと鼻で笑う私に、彼は苦笑いした。
「早く良くなるといいな」
ぽんと彼は私の膝辺りを布団の上からやさしくなでた。普段の騒々しさの欠片も無い彼が、彼の惜しみないやさしさが、その手のひらから伝わった。
あの女狐達との戦いは、私の精神を極限まで追い詰めた。
絶望的な状況で、死は常に私の隣にあった。頭の中に亡き兵士達のその家族の怨嗟が木霊する。嗚呼、私はどうすればよかったのか。
死の誘惑には抗いがたいものがある。私の仕出かした罪を、その結末を、国の行く末を、私はこの眼で見たくは無かった。
雷で打たれたかのように、私は腕が震えるままに手紙を綴った。激情のままに書き綴った。ランプの油が消えかけ、手元が暗くなるのも気にせずに。
それはまるで遺書のようだった。否、遺書だった。
書き終えた手紙を使いに渡すと、私はひどくほっとした。肩の荷が降りたような、すがすがしい気分でもあった。
そのときだった。
コツ ズッ コツ ズッ
床を打つ音と何かを引きずる音。それは交互にゆっくりと時に立ち止まって響いた。音は私の部屋の前で止まる。
コンコン
控えめなノック
私は入れと答える。
その姿を私は今でもありありと思い出せる。
プロイセンブルーの軍服は埃にまみれ、装飾のレースは黒く変色していた。それは何度も付着した血液だ。左腕も負傷し、動きがぎこちない。右足は引きずり、杖でなんとか体を支えている。背筋だけはぴんとしていたが、見るからに栄養失調気味の体は隠しようがない。彼はこけた顔に薄い笑みを浮かべた。
「どうしたフリッツ、まだ寝ないのか」
左半分は包帯で覆われ窺うことはできないが、軍医に聞くと大砲による攻撃で眼を負傷したらしい。
「お前こそ寝ていなさい、傷に障る」
「これくらいじゃ俺様は死なないぜ、フリッツ!」
「しかし、この国はもはや風前の灯火だ」
私は落ち着いていた。もう憂いは無いのだ。私はこれから死ぬのだから。
「フリッツ?」
ギルベルトは子供のように首をかしげた。
「…お前は死にたいのか?もう諦めたのか?」
その眼はとても澄んでいた。紅い紅い瞳。血のようなワインのような。
遠い昔のこと、私はそれを悪魔と呼んで怖れた。
「そうだといったらどうする?わが祖国」
少しの間もなく、彼は首をふるりと横に振る。
「どうもしないな」
隻眼で私を見据え、微笑んだ。その眼はとても美しく深く慈愛に満ちていた。
「お前の望むままにフリードリヒ。俺はお前に従おう、愛する人の子よ」
窓からの差し込む仄かな月明かりに、青年は照らし出された。厳かに彼の髪は輝いた。慈愛の瞳はぶれずに私を見つめた。
「国は道を選べない。道を選ぶのは人だ。だから、俺はお前に決めたことに従う」
私が今死ねばどうなるだろう。この青年はどうするのだろう。崩壊していく我が身を感じながら、それを止める術など彼はもたないのだ。痛みを感じないわけではないのだ、怖くないわけがないのだ。それでも彼はただ全てをその身で受け止めるのだ。
私は泣いた。涙は次から次へとあふれていく。これほどまでに泣いたのは、大切な友を喪ったときが最期だと思っていた。もう私の涙は枯れ果てたはずだったのに。
縋り付き、声をころして泣き続ける私の背を不自由な腕で抱きしめ、そっと撫でた。
悪魔とは天使が天界より地上に堕ちた姿でもある。