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veil of darkness

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ヨハンにも追従する(しかし彼はこの言い方をあまり好まなかった)精霊は多少いたが、その中でも破格の力を持つのがレインボー・ドラゴンだ。レインボー・ドラゴンと会話するのは少々骨の折れる仕事であったが、少し自分も調べてみようかと思ってしまった。そのくらいには、覇王の闇の力は彼に恐怖を与えている。
ヨハンは首を振って、諦めたように呟いた。
「なんてこった」





その夜、ヨハンはマンションの屋上にいた。管理人の許可がなければ立ち入ることのできない場所であったが、そういうことは大した問題ではない。彼の足元にはルビー・カーバンクルが忙しなく動き回っていた。ルビーも不安なのだろう。
「ちくしょう」
ヨハンは寒空の下で、なかなか答えてくれないレインボー・ドラゴンに腹を立てている。いや、普段ならレインボー・ドラゴンがこんなにも沈黙を続けることはなかった。これが恐らく、十代や覇王の示唆した事態の予兆なのだろう。だとしたら気づけなかった自分にも多少腹が立つ。薄手の上着しか着て来なかったから、体は芯まで凍るように冷たくなっていた。白い息を吐きながら今日はもうやめようかと思った時、背後でキィとドアの開く音がした。
「覇王」
振り返った先にはすらりとした少女の姿がある。昼間と同様、着ているのはパジャマ一枚だけであった。風邪をひいてしまうと思って駆け寄ろうと思ったが、そこでヨハンは何かに阻まれたように足を止める。彼女の周囲に近寄りがたい力の渦を感じた。
「・・・ヨハン」
一瞥してきた彼女の瞳を、未だかつてこんなに冷たい色だと思ったことはなかった。凍りついて透き通った金色の光は闇の中でもよく見える。これが彼女の持つ覇王のさがなのだと思うと、心臓を鷲掴みにされたみたいな恐怖を感じ、背筋がすっと冷える。根源的な、抗いようのない畏怖そのものが覇王なのだ。
「覇王、寒くないのか?」
それでもヨハンは声をかけた。一声かけたら、あんなに重苦しかった空気がすっと軽くなる。駆け寄り、上着を脱ぐと小さな肩に着せかけてやった。こんなに濃厚な闇を背負っているというのに、その体は驚くほどに小さく、しなやかだ。
「・・・、ありがとう」
覇王は澄んだ眼差しをヨハンに向け、呟くような礼を言った。そして彼女は夜空を見上げる。黙って何かを待っているようであった。ヨハンもそれに付き合い、彼女の肩を支えるようにして空を見ている。
「十代は?」
覇王の傍を片時も離れない彼の姿がないことを不思議に思い、ヨハンは言った。覇王は首を横に振り、小さな手を喉に中てる。確か声をなくしていたと聞いたが、それをまだ引きずっているのだろう。軽く咳き込んでから彼女は唇を舐める。
「ハネクリボーとどこかに行ってしまった」
「そっか」
「少し空けると言っていた」
その言葉に顔が引きつるのを感じる。姿を消すのは構わないが、いつもいつも、なぜ十代は一言も言わずに消えてしまうのだ。振り回されるこっちがいい迷惑というものだ。嘆息したヨハンに、覇王は首をかしげて見せる。その仕草のあまりにも無垢なこと。
「お前は何をしに来たんだ」
「・・・待っている」
十代を待っているのではないということは分かった。しかし、誰を待っているのだと聞く前に冷たい空気が更に冷えて、ざわざわと風が吹き始める。彼女の顔から眼を放し、思わず空を見上げたヨハンははっと息を飲んだ。空に巨大なひび割れができている。そこに開いた穴から逞しい腕が覗いた。
「マリシャスエッジ・・」
覇王の囁きが耳に響いた。ひび割れは次第に大きくなり、空の向こうから、別の次元に漂う濃い瘴気が漏れ出してくる。目視できそうなほど強い毒は現世の空気と溶けあい、それが自分たちの元まで届いた時、ヨハンは肺を差すような激しい胸痛を感じた。
彼女も精霊を使って色々調べているようである。ヨハンはガラスみたいに割れる空を見ながら思った。こんなに強力な精霊を具現化した上で、他の次元からも声を届けることができるなんて、彼女といい十代といい、どれほどの力を持っているのだと舌を巻く。ヨハンは家族のような存在の精霊こそ多かったが、具現化させることはあまりなかったし、レインボー・ドラゴン以外は常に共に過ごしていた。それは彼らが望んだことだというのもあったが。
マリシャスエッジはひび割れから這い出してきていたが、不意に、その動きが途中でがくんと止まる。肩を支えていた覇王もひくりと震えた。彼女の精霊は向こう側から何かに押さえつけられているようにもがいていたが、それがずるり、と後ろに引っぱられ始める。
「なんだ!?」
ヨハンは絞り出すように言った。覇王は何も言わないが、空気に溶ける闇がどんどん濃くなっていくのが感じ取れる。これはひび割れから漏れ出している瘴気ではなく、覇王自身がまとっているものだ。彼女もまた焦っているのだろうか。
バタン、と強い音を聞いて振り返れば、開いていた屋上の扉が風に煽られるように閉まった音であった。実際、扉は風に撒かれている。そして次の瞬間には、その強く冷たい突風が二人の立っている場所を襲った。冷たい、肌を刺す氷のような強風は、恐らくこの次元のものではないだろう。支えていた細い体がよろめいた。
「うわっ・・!」
足をすくわれた二人は、そのまま風に攫われて体が浮くのを感じた。ヨハンは咄嗟に覇王を掻き抱いたが、床に叩きつけられる衝撃はいつまでたっても襲ってこない。それどころか二人は高層マンションの屋上から投げ出されたのであった。世界が反転し、そして重力に引かれるまま真っ逆さまに落下が始まる。
「うわあああああああ!!」
加速する速度と身を切り裂くような空気抵抗の中で、ヨハンは着ていたTシャツを掴むか細い指を感じた。覇王の指だ。まさかこれも彼女のまとう闇が具現化したものなのだろうか。いや、そんなことよりも、このままではあと数秒もたたないうちに地面に激突してしまう・・、腕に無意識に力がこもり、覇王をしっかりと抱きしめる。
彼女を守りたいのか、それとも何かにしがみついてなければいられないのか、もうヨハンには何も考えることができなかった。体中の血が沸騰するような感覚を覚えた。血管という血管が、特に米神のあたりが破裂しそうに痛み、目を見開く。
だから、シャツを握り締めていた覇王が、腕の中で動いたことに彼は気づかなかった。覇王は身を乗り出すと一瞬唇を噛む。
「ダーク・ガイア!」
ヨハンが死の可能性を悟った時、耳元で覇王の打てば響くような声がした。それはどこか遠い場所から聞こえたような気がしたが、半瞬もしないで体を引っ張っていた引力が消えたように感じる。ふわりと体が浮き、ヨハンは眩暈を覚えた。
頭から落下していたはずが、鎧のような腕に支えられている。ばさりと悪魔の翼が視界の淵に入ってきた。覇王の従える精霊の、双璧の片方でもあるダーク・ガイアが二人の体を受け止めている。
(助かったのか)
それでもまだ空中にいるから、ぐらぐらと風に煽られる感覚は消えない。体中を駆け巡る血液は煮えたぎっているかのように熱く、頭に血が上って、呼吸すらままならない。しかし首をめぐらせばマンションのバルコニーの並びを見ることができて、それで少しずつ鼓動が収まっていった。どうやら助かったらしい。
作品名:veil of darkness 作家名:つづら