バベルタワー
突然降り出し止まなくなってしまった雨がまるで俺の心の中のようだ。ひどく陳腐な例えに水谷は髪型を直す気力まで失った。雨の日は練習が終わるのが幾分早く、その新鮮さは水谷を浮き足立たせるのだけれど、今日はそうはいかなかった。のっそり帰る支度をしていたら、鍵当番の阿部に部室から放り出されてしまった。その足でダラダラと教室へ忘れ物を取りに行く水谷の頭の中に、栄口のあの強張った表情が浮かぶ。
図らずともこうして雨が降ってくれたおかげで、栄口はプレゼントした傘を差し、みんなと帰っているころだろう。それでいいのかもしれない。いや、それでいいのだ。はしゃいで棒もろとも砂の山を潰す前に、砂取りゲームは一人遊びであることに気づいてよかった。
課題のプリントを机から引っ張り出したところで、ようやく水谷は自分の帰る手段がないことに思い当たった。自転車や徒歩でなんとか帰っても、この雨の中ならバッグの底まで水浸しになりそうだったし、親を呼ぶには日が高すぎる。罪悪感を取っ払って誰かの置き傘を使おうと決意したが、タイミングがタイミングなのだろう、傘立てには1つたりとも傘は残っていなかった。もしかしたら部室の外に使っていない傘があるかもしれない、最後の手段で水谷が踵を返そうとしたとき、後ろから聞きなれた声がかかった。
「どこほっつき歩いてんだよ、かなり探したんだけど」
右手にその傘があることで、何か許されているような思い違いがまた水谷を悩ませる。
聞けば栄口は、水谷が傘を2本持ってくるなんて用心深いことはしていないだろうから、また贈り物をされた感謝の気持ちもあり、一緒に帰ろうと待っていてくれたらしいのだった。
その優しさに砂が一片ずるりと地に落ちた。繰り返そう、思い過ごしは恋のうちというけれど、思い込みは決して恋のうちにはならない。頼りなさげな棒はふたたび傾きかけたが、まだなんとか砂が支えている。
駅まで行けばバスが出ているから、水谷はそこまでの道を傘に入れてもらうことにした。たちこめる雨の濃い匂いが思い通りにならない髪形と寝起きの悪い朝を連想させ、水谷はあまりいい気分がしない。
ひじに一粒雨だれが伝い、やはり一人用の傘に男子高校生が2人入るなんて無理があるんだなと隣を見ると、栄口の肩半分はびっしょりと濡れていた。着ているワイシャツが水分を含み、ぴったりと張り付いた肌の色を浮かせている。水谷は思わず目をぎょっと見開いてしまった。
きっと栄口は自分には真似できないくらい他人に対して献身的なのだろう、そういうふうに高鳴る鼓動を落ち着かせ、今度は水谷が傘を持つことを提案した。自分が3センチ背が高いことを根拠としたその説得は余計栄口の態度を頑なにさせ、気を使わせないつもりだったのに失敗に終わった。
駅が近くなるとまばらに明かりが増えてくる。遠くに見えるバスのロータリーで赤とオレンジ色のランプが雨粒を受け、ぼんやり瞬いていた。
栄口は改めて、この傘をくれた水谷に対し深く礼を述べたものだから、水谷はありったけの知恵を振り絞り栄口に引かれないような言葉を考えた。
「オレは雨も湿気も大嫌いだけど、栄口の誕生日があるだけで6月がなんとなくマシにみえてくるよ」
いつもどおり笑って受け流してくれると思っていたのだ。
急に歩みが止まり、傘の黒い軸がぐらりと傾くと行く手は黄緑に遮られる。何か気に障ることを言ってしまったのだろうか、そう水谷が思案するより早く、栄口の顔がありえないくらい目の前にあった。
あまり大声では言えないけれど、こういうふうなことをするくらい何度も妄想した、でも今になってまったく役に立たない、どうすればいいのかわからない。目を閉じるタイミングを失い、薄目のまま見た、栄口の瞼をきれいにふちどる睫毛で軽く意識がゆらつく。
まばたきとまばたきの小さな隙間に栄口は水谷の唇を甘く噛み、開放した。頭の後ろのほうをどくどく打つ脈に翻弄されながら、水谷は傘の角度を戻す栄口を眺めた。
そう、傘は身を隠すため傾けられたのだった。そんな野蛮なアイデアを考え付く栄口が少し怖くなった。
「水谷、あれお前乗るバスじゃない?」
栄口の平然とした声でようやく正気に戻る。顔も見ず、ありがとうも言わず弾かれるように走り、バスに飛び乗った。肩からなげやりにバッグを下ろし、空いている席へ座ってもまだ動悸は治まらない。車内からはもう黄緑色の傘は見えず、バスは駅前をぐるりと周回したあと明かりの少ないほうへと進んでゆく。混乱する頭を冷たい窓へ預けると、次々に映りゆく光が、そのまま胸の内へ素直に染み入ってくる。
あれをキスと呼んでいいのだろうか。キスというにはあまりに一瞬で目を閉じる暇もなかった。栄口の唇の温度が自分のと比べあまりにも冷たかったから、もしかしたら雨粒がひとつ落ちてきただけなのかもしれない。いやまさか、それはない。水谷はそんな乙女チックなことを考える自分が嫌いになった。
ふと視線を感じ我に返ったが、バスの窓にはしなびたナスのような髪型をした自分がやたら緊張した面持ちで映っているだけだった。乗客の誰として自分のことなんて気にしていないのに、途端に恥ずかしくなった水谷は両手で顔を覆った。先の方だけ冷えた指の感触が気持ち良かったが、その温度は否応なしに栄口の唇を思い返させる。
自分にこんなことをしておいて、あんなに普通にしていられる栄口。ずっとこんなことがしたかったのに何もできなかった自分。
黒い軸の傾く様が残像として目に焼きついて離れない。