インザスムースエアー
「帰りは俺が運転するわ……」
来る途中にヤバいクスリでもかっ込んだみたいになってる数学教師。おっかしいなあ普通の人だと思ってたんだけどなあ。
「っていうかせんぱい免許持ってたのうぱぱぱぱぱ」
「ん、まあな」
「生徒の免許取得は禁止だぞ没収だ没収」
「いやいやせんせい、せんせいの運転よりはマシな気がするうわわわわあああああ遠心力で死ぬぬぬぬぬ」
「全く失礼なジャンだなプンプン」
「いやあんたがプンプン言っても全然可愛くないっていうかむしろキモぐげっ」
首が変な方に曲がって舌噛みました。
「揺れる……車の、中では、あまり喋らない方が……いいです……」
美少年がありがたい忠告をしてくれるけど少し遅かったかな!
そんなコントを繰り広げている間に着きました、海。日はまだ沈む気配を見せず、向こうの沖では気の早いサーファーが波乗りに勤しんでいた。さすがに海岸線で追いかけっこするカップルとかはいないけど、近所らしい小学生が五、六人集まってやたらと壮大な砂の城を作っている。そんな中に佇む学生四人と引率教師。何しに来たんだ。
俺は首をさすりつつ、沖の方を見た。せんせいは車の中での醜態が嘘のように大人しくなり、近くのパーキングを探している。
「……結局、話し合い、しませんでした、ね……」
「あ、ああ。そういえばそんなことするんだったね……すっかり忘れてたわ」
「てめえが馬鹿みたいにギャアギャア騒ぐからだろうがこのアホ五才児」
「三才児のイヴァンに言われたくないわアホ」
「会話のレベルが小学生以下なのは変わんねえな」
ルキーノせんぱいはいかにも煙草でも吸いたそうな仕草を見せる。途中でやめたのは教師が近くにいるとか制服だからとかそういう理由ではなく、単純に手持ちがなかったからだろう。そういえば俺も手ぶらだった。携帯すら鞄の中だ。
「まっ、いーや。当初の目的は達したし」
「目的って何だよ」
イヴァンが怪訝そうな顔をする。俺は靴を脱ぎ靴下を脱ぎズボンをまくり上げつつ答えた。
「水遊びしたい」
「うわっ……」
「イヴァンに馬鹿にされた俺もう生きるの辛い」
「おいそりゃどういう意味だよ!!」
怒鳴る声を後ろに聞きつつ、俺は海の方に走り出した。砂はまだ熱い。本当は裸足で歩かない方がいいみたいだけど、残念ながら靴は向こうに置いてきてしまった。ダッシュで駆け抜けて水の中に足を浸ける。ひやっとした。冷たい。でもすぐに温かく感じるはずだ。ざぶざぶ水を蹴って先に進む。あっという間に膝上まで水浸しだ。
「……んあ?」
後ろからジャブジャブいう音が増えて振り向く。道路脇にいたはずの残り三人が揃って水の中に入ってきていた。向こうにせんせいの姿も見える。全員、靴も脱いでなければズボンもまくっていない。もれなく深刻そうなツラをしていた。
「なあに皆さん、海水で服濡らすと傷んじゃうよ?」
無言。えっ何だよ、俺そんなに悪いことした?確かに海行きたいって駄々こねたけど、来ちゃったんだからそれは不問じゃねえの?俺は叱られそうな雰囲気に何となくその場から動けなくなってしまう。緩い波が膝裏をくすぐり、ふんばってないとさらわれそうだ。
「……お前」
はた目から見ても顔を強張らせているイヴァンが、やけに固い声を出した。聞き取れなくて、俺は仕方なく数歩戻る。全員に流れる弛緩した空気。って、おいおいおい、この空気はまさか。
「自殺、するとかじゃ、」
「ハアアアア?するわけねえだろそんなこと!お前ら馬鹿か!」
イヴァンははっきり安心した顔を作る。そしてその顔をすぐに歪めて眉間にシワを寄せた。あっ怒鳴るな。俺は耳を塞ぐ。
「紛らわしいことしてんじゃねえドアホ!!」
「紛らわしくねえよ最初っから水遊びって言ってんだろ!死にたい奴が靴脱いで服まくるかってんだよ!」
「紛らわしいんだよッ!クソ、馬鹿、滅べ!」
「ほんとだよ、全く」
がし、とルキーノまでが俺の頭を首ごと固定する。う、動けないんですけど。
「あんまり躊躇いなく進むから、俺でもこれはマジだと思ったぜ」
「せ、せんぱい、首、マジで締まって、」
「つーかお前、死にたいって言って走ってったからな。タイミングの問題だ」
ヘッドロック状態の俺は本気で落ちそうだった。反省してる、反省してるからとりあえず離してつかあさい。せんぱいは首ごと俺を波打ち際まで引きずって、そこでようやく解放してくれた。くらくらしている俺の手を両手で誰かが押さえる。やはり真面目な顔付きの美少年だ。顔の綺麗な奴が深刻そうにしてると宗教画みたいで縁起が悪い。
彼は俺の手を握手するように三回ほど強く握って、それから離れて水から上がった。あんな善良そうな少年にまで心配させてしまったのか。海に入る前の俺はどんな顔をしてたんだ。
そして残りのひとりだ。
「ジャン……」
せんせいははっきり分かるほど青い顔をしていた。他人から見たらこっちの方がよほど自殺しそうな顔だ。スラックスの端が海水と砂で汚れている。
俺だって空気くらい読む。せんせいの頭の中でどんな単語が駆け巡っていたのかはさっぱり分からないけど、茶化して適当に謝るっていうのはやっちゃいけない行為だ。たとえ誤解だろうとも、笑ってごまかしてはいけない領域なんだ。だから俺はせんせいの目を見て、顔から笑みを消して、それでも明るい声を出した。
「心配かけました、すいません。もうやらないです、ごめんなさい」
「………………」
せんせいは少し黙ったあと、急に力が抜けたようにしゃがみ込んだ。長い髪の毛をわしわしとかき回し、深いため息をつく。
「はああああ……ったくよう、俺今頭の中で十個くらいシミュレーションしたよ……学校と警察と病院と父兄とマスコミに何て言い訳したらいいか考えてゾッとしただろ……」
「まあ、それもそうだな。辞職願いが必要になるだろうし」
「せんぱい容赦ないね……」
「はあああ疲れた、胃に悪いよ、死ぬんなら俺が死んでからにしてくれ。もしくは卒業したあとに」
「うわ駄目な大人だ」
俺はイイイッと口を結んだ。せんせいは駄目な大人だけど、それでもイヴァンが尊敬するような大人なので、場の空気を変えることくらいは簡単にできる。そもそも全員が勘違いしたのが悪いんだから、暗い雰囲気にさせないことくらい当たり前だ。
「……ところで、急な話なんだがね、先生」
と、ルキーノはポケットから何か紙切れを取り出した。うなだれたままなかなか帰ってこないせんせいに向かって差し出す。俺や他の二人も、何かと思って後ろに回り込んだ。表情が変わる。うなだれ数学教師は驚愕、俺とせんぱいはにやり、イヴァンはバツが悪そうな顔に。
「これ、あんたの彼女?いや、元彼女か」
「ぐはっ、るきっ、ルキーノてめえこれどこで見付けやがった!」
「ダッシュボード。駄目だぜ先生、助手席に男を乗せちゃあ」
その写真らしきものを奪い返そうと、せんせいは膝立ちのまま必死になるけど、上背のあるルキーノは簡単にかわして触らせもしない。
作品名:インザスムースエアー 作家名:すずきたなか