鉄の棺 石の骸4
人類の文明の記録は、ほとんど全てパラドックスが把握した。この記録を保存できる媒体で全て遺しておいたら、いつかどこかの星から異星人が、誰もいなくなった地球へとやって来た時の助けにはなるかもしれない。
だが、パラドックスにだって理解しきれない物事があるもので。
『愛とは何だ?』
それを解き明かす資料だけは、まだ完全に揃わない。
誰か私に、原稿用紙何枚分のレポートでもいいから提出してくれ。
『2xxx年xx月xx日。午前九時二十五分。またあの発作だ。これでもう三日目だ。今日のZ-oneは、赤子に戻ったかのように泣いている』
べちゃりと床に腹ばいになった老人のZ-oneは、何が悲しいのかサイレンのように泣き続けている。機械音交じりのつんざく泣き声に、鼓膜がびりびり震えてとても痛い。
「今回は、赤ちゃんの「彼」みたいだね」
「こんな赤子の頃の記憶も、データに取れるのか。人格データも奥が深い」
「感心してないで手伝ってくれ! 今日の彼は、足腰が全く立たないんだぞ!」
「あ、そうだね」
アポリアからの提案で、長い鉄パイプ二本に丈夫な衣類を通し、即席の担架を仕上げてZ-oneの部屋に運んだ。
ベッドにころりと転がした一瞬に嗚咽は止まるが、ほっとしたのもつかの間、また火がついたようにZ-oneが泣きだす。
泣きすぎて、喉を詰まらせるのはまずいだろうと、Z-oneの仮面が取り外される。年を取って皺だらけになった左ほおの皮膚が、真っ先に現れる。
顔半分が鋼鉄に覆われた彼の頭部は、オリジナルの「彼」とは違って非対称的だ。
普段、仮面に覆われて見えない彼の素顔に、パラドックスの意識はそれた。それ故に、彼は気付けなかった。
人恋しかったのか、Z-oneがパラドックスの髪を一房つかみ取ってしまったことに。
「うぉお!?」
Z-oneが泣きやんだのを確認して、パラドックスがベッドの傍から立ち上がろうとした。その時、後ろから髪の毛を引っ張られ、弾みでこきゅっと首から変な音がする。
「痛た……何だこれは?」
痛めた首筋をかばいながら、パラドックスは目をぱちくりさせた。Z-oneが腕を伸ばし、パラドックスの後ろ髪をぎゅうぎゅう引っ張っている。
「おい?」
パラドックスはぐにぐにと閉じた拳を開かせようとしたが、鋼鉄の義手はやけに堅くて引きはがせない。
「あー、結構強くつかまれちゃってるよ、これ……無駄に長い髪の毛も考えものだね」
「どうするんだ? ハサミでも持ってきて切るか、これだけたっぷりあるんだし」
「君たちは、私の大事なアイデンティティを何だと心得る!」
「あっ……」
慌ててパラドックスが口を噤んだが、後の祭りである。
再び、鳴り響く泣き声。
「あー……」
「パラドックス……」
「君たちがっ、君たちが変なことを言うからだっ」
Z-oneは、大人たちの責任の擦りつけ合いをよそに、一人でひたすら泣いている。暴れられないだけましではあるが、この調子ではいつになったら発作が治まるのだろうか……。
考えるだけで気が遠くなる。
「と、とにかくだ。ベッドに寝かせておけば、いつものように暴れないだけましだからな」
「うるさいだろうから、僕たちは、別の部屋行ってみるからね。呼んでくれたら、食事を持っていくから」
「捕獲ネットは、サイドテーブルに置いておくぞ」
「えっ、お前たち、このまま逃げる気では……」
無情にも、部屋の自動ドアはぷしゅんと音を立てて閉まってしまった。
取り残されたパラドックスは、次第に状況を把握した。
「おい、まさかとは思うが……」
まさか、自分一人で、赤子に退行したZ-oneの世話をしろと。
まだ書き終えてないレポートが、今日の分だけでも後三冊ほど残っているというのに!
ベッドから離れるべく試行錯誤した挙句の果てに、パラドックスはあきらめてZ-oneと一緒にベッドに沈んだ。
3.
先ほどは読書に例えたが、知識の取り込みは、ある意味食事にも似ている。
綺麗なテーブルクロスを敷いて食器の用意をした特等席。そこにパラドックスはもったいぶって席に着く。
順序立てて運び込まれた料理の数々に舌鼓を打ち、その後はひたすら口に黙々と運ぶだけだ。
食後は料理のあれこれをこと細かに批評し、まずかった料理は二度と話題にすらしない。
最近、パラドックスの知識の食卓に、度々調理されて上るものがある。
Z-oneに関する知識だ。
英雄風味に一見不揃いなように切りそろえられた食材には、風変わりな味のソースが絶妙なバランスでかけられている。
今まで世のグルメどもに見向きもされなかっただろうそれは、食べてみると、舌でとろけてとてもうまい。
批評もそっちのけで皿に一かけらも余さず食し、全て空になれば次はどんな料理にしようか思いをはせる。
風味豊かな彼の味は、いくら大量に食しても、飽きることは全くない。
無論、これはあくまで例え話で妄想だ。本当に人間自体を食す趣味はパラドックスにはないし、これは実際に犯罪を奨励する意図で書かれたものでは絶対ない。
しかし、時折こんな夢想をしてしまう。
綺麗な姿にむかれた彼が、巨大な食卓に乗せられて、さあどうぞ食べてくださいと言うような姿で待っている光景を。
通じてないと知ってはいるが、試しにZ-oneに訊いてみた。
「なあ」
泣き声。
「腹でも空いたのかね?」
泣き声。
「どこか痛いところでもあるのかね?」
泣き声。
「……」
頭に浮かんだ最後の質問は、あえてしないことにした。それが仲間としての最低限の礼儀だ。
パラドックスはベッドで寝がえりを打って、Z-oneと向き合う。
Z-oneは、赤子がそうするように、両の義手をきゅっと丸く握りこんでいた。
「君は、私に何をして欲しいのかね……?」
『2xxx年xx月xx日。時間は御昼時だろうか、忘れてしまった。アンチノミーが、私とZ-oneに昼食を持ってきた。いい加減腹が減ったぞ』
『今日の昼食は、サンドイッチ。Z-oneには人工ミルク飲料だ。もうこの世に乳を出すような牛もいないし、この際選択の余地はない。幸い彼はよく食いついてくれた』
『私の端末を持ってきて欲しいとアンチノミーに頼んではみたが、私が妙な動きをするとZ-oneに泣かれる。暇な時に赤ん坊のあやし方を詳しく調べておくべきだった』
「ん、ぷはっ……」
「あ、こら、飲んでる最中にいきなり口を離すのではない。……ああ、零してしまったぞ……」
ストローからいきなり離されたZ-oneの唇から、ミルク飲料の白い筋がたらりと伝って首筋まで零れる。唾液交じりのそれを拭く間もなく、立て続けにそれを欲しがる唇が、赤い舌をのぞかせる。
年老いたはずのZ-oneの唇は、水気が施されてやけに紅く艶やかだった。
「あー、あー……」
意味をなさない言葉が、Z-oneの喉から伝わってくる。
「ほら。誰も取ったりしないから、ゆっくり飲んでくれたまえ。そう、そうだ……」
ストローを唇に含ませると、再び彼が、こくこくと喉を鳴らす音だけが、しんとした部屋中でやけに響いた。