ユースカルチャー
保護していたメールを最初から順に読みきったら意を決して全部消してしまおうと思った。でもそんなことできるはずもなく、手からやる気なく滑り落ちた携帯電話はベッドの下へ鈍い音を立てて落ちた。うだうだしているうちに枕へも上掛けへもすっかり体温が移り、微妙にぬるくて全然落ち着かない。特に足が熱い。水谷は身体を起こして開いた足の指をうらめしそうに見た。『つ』で絶句したあと口をつぐんだ栄口の凍った表情が脳裏をよぎると自然と背中が縮こまって丸くなる。
自分では最高のシチュエーションで告白したつもりだったのに水谷が栄口から得たものはたった一文字しかなかった。爆笑である。何がって、こんな結果を全然予想していなかった自分のお気楽さ加減に対してだ。もう笑うしかない。暗い体育館、まわりの注目はすべてステージ上へと集結され、ある意味二人きり。それでもって自分が今一番好きな曲が演奏されたら「いけるんじゃないか?」と瞬時に場の空気にほだされてしまった。
冷静になって考えてみると『いける』わけがない。水谷はかすれた呻き声を上げ、またベッドへと沈んだ。どうしてオレは栄口のことを勘違いしていたんだろう、もしかしたら、なんてどこで思い詰めてしまったんだろう。ほかのみんなとは違う、ちょっと特別な態度だって栄口にしてみればどうということではなかったのかもしれない。なのに自分は勝手に浮かれて、のぼせ上がって、そして結果栄口を困らせてしまった。
せめて返事を待てたら良かったのかもしれない。でもあの時それができたら今こんなに腐っていない。心臓の音が回数を重ねるたび、頭の上から大きなものに押しつぶされているような気がして苦しくて苦しくて水谷は逃げた。ほんの数秒、鼓動にして10数回が我慢できなかった。
もう一度携帯を見ると、最後にもらった、最後に保護したメールが目に入る。なんでもないことに一喜一憂していた過去の自分はもうやたらと遠くに見える。今の水谷には栄口からのメールを全部消すことなんてまだできない。だから消せる時が来るまでそのままにしておくつもり。こんなの気の迷いだったって笑って冗談にできるまで。
正門からとっとと帰ればいいのにわざわざ遠回りでこっちのグラウンドを迂回して、しかも自転車を押してゆっくり歩いてるとかグラ整してる奴に見せ付けてどういうつもりなんだと思ってしまう。
「つか単に水谷、うらやましいんだろ?」
「べつにぃ」
横の泉はゲラゲラ笑って「強がりすぎ」と水谷を指差した。言われてみれば確かに言葉の節々に恨みがましいニュアンスが含まれていたような気がする。
「でも文化祭終わったあと増えたなー」
「なにが?」
「付き合いだすやつら」
泉に他意はない。まさか水谷がその文化祭で勝負に出て、しかも失敗しているなんて知る由もない。グラウンド脇の歩道を歩く男子生徒と女子生徒は夕陽の逆光を受けているせいで表情が読み取れないが、きっと幸せそうに違いない。水谷の腹の奥にまだ存在している憤りがふつふつと煮立ってくる。いじけてトンボで強く砂を引っ掻くと、お前真面目にやってんのかと苦言を呈されてしまった。
「……やってますぅ〜」
「幸せ者を妬んだって空しくなるだけだぞー?」
「……まぁ、あんなのすぐ別れるっしょ」
トンボの柄にあごを乗せて精一杯の皮肉を吐いていたから、後ろから近づく人影を感知できなかった。
「水いるかー?」
「いるいる、このへん」
泉はじょうろを持った栄口へ指示したが、ベンチで会議中の花井から名前を呼ばれ、水谷へ「あとよろしく」と言付けるとトンボを担いでさっさといなくなってしまった。あれから1週間が過ぎたというのに二塁ベース残された二人の間に漂う空気はなんとも気まずい。ふられたのはオレだし、情けないのもオレなんだから、栄口はもっとやさしくするべきだ。しかし水谷の傲慢は相手へ届かない。
「……さっき喋ってた『すぐ別れる』って何?」
「……ああ」
フェンス奥の歩道をまだもったり歩いている男女をあごで指すのもそこそこに、水谷はすぐさま地面へ目を落とした。栄口と対峙するといかに自分が惨めか思い知らされるような気がしてとてもつらい。水で湿った土を懸命に均すふりをするのもまたつらい。
「水谷はそう思うのか」
だから何だって言うんだ。正面に立つ栄口のスパイクが目に入るのも嫌で、水谷は顔を上げることなく黙ってトンボを引いた。オレはかわいそうだからこれくらいのわがままなら許されると、どこかで奢る卑屈な自分がいる。問いかけにずっと返事をしないでいたら栄口はぽつりと「水足してくる」と言い、踵を返した。
それでようやく水谷はまともに栄口の姿を見た。とはいっても練習で汚れたユニフォームを背負う、くたびれた背中だったけれども。冷たくしたいつもりじゃないのに、自分が求める意味での受容を拒否されただけでこんなにも態度が変わってしまうのをやめたい。でもできない。
「栄口」
遠ざかる背が一瞬水谷の呼びかけに気づき、わずかに反応を返したように思えたが、栄口が歩みを止めることはなかった。グラウンドに落ちる影が自分からどんどん遠くなるのをトンボに寄りかかって眺めた。
もう一度、さっきと同じ音量で名前を呼ぶ。今度は多分届いていない。ああ、オレの恋は終わってるんだな。再度思い知らされるとどこかから暴力的な衝動が湧き上がる。いらいらしてぎゅっとトンボの柄を握り締めたら、水谷はどんな悪事も非情な振舞いも今なら楽々こなせそうな気がした。大きく息を吸い、ありったけの力で叫んでやる。
「好きだ!!」