桜渡り
3.
朝まだ早い春の海は、しん、と静まり返り、小舟が浜へ乗り上げる砂の音すらも驚くほど大きく響く。薄くけぶる朝もやの中、元親は大きく小舟を揺らして浜へと降り立った。そのまま一人で、湿った砂を踏みしめながら歩き出す。程無くして、元親の向かう先にぼんやりと壮麗な建物が浮かび上がってきた。浜から海上へと造られた渡り廊下の先には、朱塗りの大門が見える。遠慮も無しに、ギシギシと大きな足音を立てて廊下を行くと、門番が黙って大門をゆっくりと開ける。その先には、また朱塗りの柱が立ち並び、白壁と格子窓の設えはまるで社のようだった。社で無いことは、そこここに立つ兵の物々しさから明らかだ。何処からともなく現れた案内役の兵も、表情もなく目配せをしただけで、一言も口をきかない。そのとても歓迎されているとは言い難い雰囲気に、元親は自嘲に唇を歪める。幾ら本陣とはいえ、同盟の為に一人訪れた国主に対して余りに頑なな態度だ。それがそのままここの主の態度であるように感じて、ため息を吐きたくなる。
やがて一際立派な扉の前へと辿り着いた。両脇には、陸から植え替えたものか、満開の桜が花の盛りを迎えていた。朝露に濡れた黒々とした幹と、薄紅の花弁の対比が美しい。
――また、桜か。
「入られよ」
扉の向こうから、凛と響く声が入室の許しを告げる。その声を聞いた瞬間、元親は悦びに胸が震えるのを感じていた。ゆっくりと開いた扉の向こう側には、鮮やかな翠色の小袖と袴を身に纏った男が中心に坐している。両脇には男の配下である武将共が居並んでいたが、元親の視界には中心に居るただ一人しか映っていなかった。身体も心も強い力で吸い寄せられるようだった。
「邪魔するぜ。――長曾我部元親だ」
「よく参られた。毛利元就である」
元親は、揺れる感情を振り払うように威勢よく名乗った。あのひと――毛利は全く感情の読み取れない表情で淡々と名乗り返した。元親がこれほどまでに必死に動揺を抑えようとしているのに、相手は憎らしい程に平静だ。
中へ足を踏み入れると、元親は毛利の前まで来てどっかりと腰を下ろした。そうして二人ははっきりと目を合わせる。熱い視線と怜悧な視線が真っ向からぶつかった。
「着いて早々で悪ィがな、アンタとサシで話がしたいんだがよ」
それを聞いた毛利の将達はざわめいたが、つ、と動いた主の腕がゆっくりと横に薙ぐのを見て取ると、ぴたりと口を閉ざして静かに退出する。その様を眺めていた元親が、感心したように言った。
「よく躾けてあんじゃねェか」
「我の兵が我に従うは当然であろう。戯れ言を抜かすな」
元親の揶揄いに毛利は眉を軽く顰め、将らが居なくなった途端に口調を崩して吐き捨てるように言った。それを無遠慮に見ていた元親は楽しげにニヤニヤと笑う。元親が何故これほどまでに喜んでいるのかを知っているのだろう、毛利は更に眉間の皺を深めて、忌々しげに溜息を吐いた。そんな毛利に、胡坐をかいた元親はぐっと身を乗り出した。
「なァ。俺の言った通りになったろ?」
「貴様の執念深さは呆れるのも通り越してむしろ憐れよ」
「相変わらずつれねェなァ、アンタは」
くつくつと元親は笑う。その表情に、けんもほろろな毛利の言葉と態度に傷ついた様子は欠片も無い。幼い頃から焦がれ続けたひとにまた逢えた。その喜びだけが今の元親を満たしていた。
たとえ、今のお互いの立場がどんなものであったとしても。
中国の盟主と四国の雄。瀬戸海を挟んで覇を競う相手こそがあのひとであると、確信した時は自分自身を疑った。知略と言えば聞こえはいいが、時には味方すらも謀り、騙し、陥れる、その用兵には何の容赦もなく、人であることを止めた者にしか為せぬ所業よ、と忌み嫌われるその男が、あのひとであると信じたくはなかった。だが注意深くひとつひとつの行為を見ていくと、やり方は褒められたものではないものの、全ては中国の安寧と毛利家の安泰の為という覚悟に基づいていることに気付いた。それこそが、あの時自分を諭し道筋を示してくれたあのひとの、成すと決めたことを他者にどう思われようと必ず為すという姿勢だった。そう気付いた時に、離れていた二つの像が元親の中で重なり、毛利元就という存在を確かに捉えられたように思えた。
真実というものがこの世にあるとして、毛利元就の真実が元親の思うそれであるかどうかは分からない。ただ元親にとっては、自分の感じたことが全てだった。
元親は、じっと毛利を見つめた。
「何でアンタはいつ見てもその姿のまんまなのかとか聞きてェことは山程あるけどよ、先に言っとくわ」
毛利の眉がわずかに顰められる。
「ありがとうな」
元親から突然ぽろりと零れた礼の言葉に、毛利の眉間にさらに深い皺が寄る。
「解せぬな。礼を言われるようなことをしてやった覚えなどないわ」
「そんなことねェだろ?じゃあ何でアンタは俺の前に現れたんだ?」
「ほんの気の迷いよ」
「二回もか?噂に名高い毛利元就って野郎は、そんな気の迷いを起こす奴にゃ見えねェけどな」
問い詰めるほどにじりじりと毛利へ近付いていった元親は、ついにその腕を掴む。射殺されるかと思う程の苛烈な視線で睨まれるが、元親は怯まず真っ直ぐその視線を受け止めた。
「俺のためだろ?」
傲慢なまでの断定は、半分は確信で半分は元親の願望だ。そうであってくれ、頷いてくれ、と縋るような想いを全て瞳に込めて毛利を見つめる。すると、ふと毛利の視線が揺らいだ。すぐに自分で気付いてか俯いてしまったが、その一瞬の表情が目に焼き付いて離れない。戸惑うような、羞じらうような、それでいて親とはぐれた幼子のような不安定な表情。
「……貴様が歪んで育ったらつまらぬ。それだけよ」
毛利が、俯いたまま早口でそれだけ言う。元親は、突き上げてくる衝動に駆られ、掴んでいた毛利の腕を引き寄せ、その華奢な身体を自らの腕の中へ閉じ込めた。幼い頃は憧れ、長じては相対し、睨み合っていては気付かなかった相手の思わぬ脆さを今、自らの身体で感じていた。そんな元親の行動に、毛利は何故か抵抗せず大人しく腕の中に納まっている。元親は、毛利の髪をかき交ぜ、軽く髪を引いて顔を上向かせると、相手の顔を見下ろした。その毛利の表情に、元親の隻眼が見開かれた。
毛利は、全く仮面が被れていなかった。常に纏っている冷静、冷徹な氷の仮面。それが剥がれ、生身の毛利の顔がそこにあった。浮かべる表情を決めかねて、途方に暮れたように揺れる瞳はほんのりと紅く潤んでいた。
「――ならぬ。見るな、長曾我部」