でぃー あいふぁーざーふと -die Eifersucht-
翌日。
蒸し暑い神谷道場で、弥彦は門弟たちに無心で稽古をつけた。
今日の師範代は熱が入っている。
東日本で五指に入る腕前の剣客の稽古は日頃から生半可なものではなかったが、
気迫が違う、と、門弟たちは感じていた。
すすんで稽古を望む者もあれば、おっかなびっくり遠巻きにしている者もいる。
巻き込まれないようにわざわざ薫のほうへ寄っていく者もいた。
もっとも、そういった気負けしている門下生は
薫の手で弥彦のほうへ押し戻されていたが。
薫は常とは違う弥彦の様子に気づいてはいたが、
道場の隅で初心者を相手に基礎の稽古に忙しく、とりあうつもりはなかった。
おおいに汗を流した弥彦が一旦、由太郎と交代する。
弥彦の異様なまでの気合の入りようには由太郎も気づいていた。
門弟たちをあしらいながら、由太郎はちらりと弥彦を盗み見た。
由太郎の稽古も弥彦同様厳しいが、
今日の弥彦の稽古は厳しいというのとは少し具合が異なる。
何か、あったな。
「師範代!次、お願いします!」
「応!」
稽古が終わったらつついてみよう。
持ち上がりかけた口角を戻し、由太郎は左手の竹刀を構え直した。
「何があった?」
「あ?」
井戸を遣っていた弥彦は不機嫌そうに振り向いた。
由太郎は含み笑いの表情でもう一度弥彦に同じ問いを投げた。
「だから、何があった?」
「…何も、ねぇよ。」
暫く間をおいて、弥彦はぼそりと答えた。
顔は極力由太郎を見ないように井戸のほうに向き直っていた。
「お前は嘘がつけないからな。すぐわかる。」
由太郎は弥彦の反応を楽しむように目を細めた。
「何言ってやがる。」
弥彦はまた不機嫌そうにそらとぼけた。
由太郎が背後でにやけ面をしているのが手に取るようにわかる。
下手な挑発には乗らない。
弥彦は乱暴に井戸水をかぶった。
ばしゃっと水が跳ねる。
「やめろよ。かかるだろ。」
「悪かったな。遠慮すんな。もっとかけてやるよ。そうすれば気にならなくなる。」
「御免蒙るよ。」
由太郎のからかうような口調が気に入らない。
本気で水をぶちまけてやろうかと思ったが、すんでのところで思いとどまる。
実行したら、由太郎を憤らせるよりも喜ばせてしまう気がした。
挑発には乗らない。
「機嫌の悪いお前には耳に毒かな?でも話したいことがあってね。」
来た。
弥彦は心の中で身構えたが努めて平静を装い、
井戸端にかけておいた手拭いに手をかけた。
「なんだよ。」
相変わらず視線は井戸を向いたまま、手拭いを使う。
由太郎はのんびりした口調で話し始めた。
「一昨日はね、女性と一緒だったんだ。」
「いつものことだろ。」
「まあね。」
悪びれない物言いに弥彦はむっとしたが、とりあえず続きを促した。
「で?」
「まあ、市中を散策したのだけれども。その女性がかわいらしくってね。
小間物屋で櫛やら簪やらを見るとちょっと欲しそうな表情(かお)をするんだよ。
でも、買ってあげようとするとすぐ恐縮してしまってね。」
「お前からの贈り物なんか受け取れるわけないだろ。下心をお見通しだったんだろ。」
ハハハ、と、由太郎は笑い飛ばした。
「下心なんてあるもんか。俺は女性には誠意をもって相対しているからね。
彼女は慎ましくて正直な女性(ひと)だから。本当に受け取れないと思ったんだろ。
本当に、似合いの櫛やら手鏡やら、あったんだけどね。
反物も見ようと言ったんだけど、それはいいって言うんだよ。
それで―。」
「話のオチは。」
強引に話を遮った。
これ以上続くのはちょっとご免だった。
「じゃあ赤べこで続きを話そうか。」
「悪いな。俺は裏で雑用なんでな、聞けそうにないぜ。」
口調に剣呑なものが含まれるのを自覚した。
さっさと由太郎の話を終わらせたい。
「そうか。残念だなあ。じゃあ燕ちゃんに聞いてもらおうかな。」
燕という単語に、つい弥彦は反応してしまった。
くるりと振り向いて由太郎を睨み上げる。
案の定、由太郎はにやけ面をしていた。
「…燕に話したってしょうがないだろ。一昨日一緒にいたのは燕なんだから。」
おや、と由太郎は眉を上げた。
「なんだ。もう聞いていたのか。」
弥彦は舌打ちをして、吐き捨てるように言った。
「聞いてねぇよ。」
「じゃあなんで知ってるんだよ。」
うるせーなあ、と、弥彦は頭を掻きむしった。
おかしいなあ、と、由太郎は首をひねる。
「お前の縄張りには近寄ってないはずなんだがなあ。
ウチに誘って日本橋に出て最後にちょっとその辺を…。
それか。」
ぷっと由太郎は吹き出した。
「お前、見てたわけだな、俺と燕ちゃんの、das Stelldicheinを。」
「…ここは日本だ。日本語で話せ。」
「まあ、お楽しみってことさ。」
「…。」
手拭いを乱暴に井戸に引っ掛けて、弥彦はぼそりと言葉を発した。
「別に跡をつけたりしたわけじゃないぜ。
お前らが俺のいたところに勝手に来て勝手にくっちゃべって帰ってったんだよ。」
弥彦の仏頂面の解説に、由太郎はさらに笑い出した。
「黙って指をくわえて見てたってわけか。そいつはいい。」
けらけら笑う由太郎に、弥彦の堪忍袋の緒はあっけなく切れた。
ぐいっと胸倉を掴んでさらに至近距離から由太郎を睨みつけた。
「…逢引中の男女の間に割って入るほど、俺は野暮じゃねえよ。」
それに、と、手を放す。
「燕が、承知したんだろ。お前と、会うのを。」
弥彦はぷいと横を向いた。
由太郎はくすりと笑って乱れた襟元を直した。
「お前は本当に不器用だな。」
弥彦が反論しかけたのを片手で制して踵を返す。
「ちんたらやってるなら俺が燕ちゃん貰っちゃうぜ?
俺以外にもたくさんいるんだからな。燕ちゃん狙ってる男は。」
すたすたと去っていく由太郎を
弥彦は苦虫を噛み潰したような顔で見送るしかなかった。
母屋からは剣路のはしゃぐ声が聞こえていた。
作品名:でぃー あいふぁーざーふと -die Eifersucht- 作家名:春田 賀子