でぃー あいふぁーざーふと -die Eifersucht-
夜―。
妙たちと別れた後、弥彦は燕を川べりに誘った。
土手からは秋の虫の声。
やや欠けた月が、弥彦とその1歩後ろを歩く燕を照らしている。
無言のまま歩く弥彦の背中を燕は努めて見ないようにしていた。
見れば不安がぶり返す。
それでなくても緊張で心ノ臓が早鐘を打っている。
唐突に弥彦が口を開いた。
「昨日は悪かったな。」
「え?」
歩みを止めて、弥彦は燕に向き直った。
「昨日は、送ってやんなくて悪かったな。」
「あ、ううん…そんなコト。」
突然の弥彦の謝罪に、燕は戸惑いつつも何とか返事をした。
弥彦はまっすぐに燕を見つめていた。
「燕…。」
呼びかけてから、長い間があった。
燕をまっすぐに捉えていた視線が困ったように揺れ始めた。
「由太郎と、その…。」
ようよう切り出したもののそこから先の言葉が続かない。
「だから、その、由太郎のことが、その…。」
秋の虫の音が虚しく響く。
「あの、だから…。」
焦った弥彦は思わぬ台詞を吐いてしまった。
「お前、由太郎と話してて楽しいか?」
弥彦はふいっと視線を逸らした。
1拍おいて、燕が困惑顔になる。
返答に窮しているのは明らかだった。
早くも弥彦の胸中は大きな後悔で満たされた。
これではまるで由太郎を中傷しようとしているかのようである。
このような形でしか今の気持ちを表現できない自身を、弥彦はひたすら呪った。
燕が小声で何事か呟いた。
「え?何?」
聞き取れず、弥彦は燕のほうを見て問い返した。
燕はうつむいてか細い声で同じ言葉を繰り返した。
「楽しいよ…。」
「…そうか。」
否定されなくて良かった、由太郎の友としてそう思う前に、
何かが胸の奥をちりりと焼く感触を弥彦は味わった。
それは嫉妬かもしれないし、返答に困るような質問を燕に投げつけた罰かもしれない。
いずれにしても気持ちの良いものではない。
その異物を吐き出すかのように、弥彦は空を仰いで言葉を紡いだ。
「そうだよなぁ…。アイツは話題も多いし…女に向かってキレたりもしないし…
俺ほどじゃねぇけど腕っぷしもまあ強いし…女にも優しいし…
背もあるし…留学帰りだし…。」
突然、燕が弥彦の胸を突き飛ばした。
突き飛ばしたといっても燕の力では弥彦を半歩後ろに退かせるくらいしかできない。
それでもおとなしい燕の思わぬ攻撃的な仕草に弥彦はびっくりした。
当の燕はうつむいたまま何も言わない。
「燕?」
弥彦の問いかけに、やっと燕は下を向いたまま口を開いた。
「由太君と話すのは楽しいよ…。いろんなことを教えてくれるし…。
独逸に行ってたからかな…びっくりするようなことをしてくれたり…。
それは勿論楽しいよ…。
でもね…。」
顔を上げ、燕は声を震わせながらも続けようとした。
が、うまく言葉にならないのか言葉にするのをためらっているのか、
なかなか次の言葉が続かない。
結局燕は前後の脈絡のない台詞を口にした。
「今日の弥彦君とは、もう話したくない。」
弥彦にくるりと背を向けて、来た道を戻ろうとした燕だったが
弥彦の右手が燕の袖を捕らえるほうが若干早かった。
「待てよ!」
「放して!」
「待てったら!」
弥彦の手がどうあっても離れないので燕はまなじりに涙をためて弥彦を睨みつけた。
怒りを纏った視線を正面から受け止めて、弥彦はひとつ息を吐いた。
「…悪かったよ。ヘンなコト言った。」
燕は無言のままだったが、歩を進めようとはしなかった。
「わかった。質問を変える。お前、俺と話すのは楽しいか?」
最初からこう訊けば良かった…。
弥彦の胸中を再び大きな後悔が襲ったが、
一度口にした言葉をなかったことにはできない。
「別に由太郎と話すのを悪く言いたかったわけじゃないんだ。
言うコト間違えた。ホント、悪かった。」
いまだ怒りで泣きそうになっている燕の目を見て、かえって弥彦は肝が据わった。
とにかく正直に話そう。
弥彦はゆっくりと口を開いた。
「実は…。一昨日、見ちまってよ。お前が、由太郎と楽しそうにしゃべくってんの。
お前があんまり楽しそうだったもんだから…。つい…その…。」
意を決して話し始めたものの、肝心なところでやはり言葉に詰まってしまう。
由太郎が羨ましかった。
燕をあれだけ多弁にし、笑わせる由太郎が羨ましかった。
弥彦の心はその事実をすでに認めているが、
面と向かって燕に打ち明けるのは意外なほど苦しかった。
だが、燕にはそれで十分気持ちが通じたようである。
燕の表情(かお)から怒りの色が消えていく。
暫くして燕は静かに先程の問いに答えた。
「弥彦君と話すのは楽しいよ。」
でも、と、言葉を切って、燕はややぎこちない微笑を添えて言った。
「弥彦君の話を聞くのはもっと楽しいよ。」
これには弥彦が面食らった。
「俺の話?」
「うん。」
燕は少し考えてからこう続けた。
「弥彦君の剣術の話は、よくわからないコトも多いし、
私の好きな絵師さんのコトとかは、弥彦君もよくわからないと思うけど…。
それでもね、弥彦君がお店に来る頃になると、いつも楽しみなの。
今日は何が聞けるのかなって。」
楽しみなの、と、燕は繰り返した。
やや長い間があって、弥彦は納得しかねるという様子で問いかけた。
「そんなもんか?」
「うん。」
燕は迷いなく、笑顔で頷いた。
弥彦の身体から力が抜けていく。
結局、由太郎と弥彦と、どちらと話すのがより楽しいのかということについては
煙に巻かれた気がするが。
(ま、いいか…。)
「わかった。」
燕の袖から手を放し、帰るぞ、と、声をかけた。
歩き出した弥彦の半歩後ろを燕が行く。
歩きながら、弥彦がぼそっと呟いた。
「わかってるだろうけど、気のきいた話はできないからな。」
「うん。」
ためらうことなく肯定されて弥彦は内心苦い思いだったが、気を取り直して、
それから、と、ぶっきらぼうに続けた。
「夜道は必ず、送らせろ。危ねぇからな。」
一瞬の間の後、燕はにっこりと頷いた。
「うん。」
月明かりの下、2人は家路を急いだ。
<了>
作品名:でぃー あいふぁーざーふと -die Eifersucht- 作家名:春田 賀子