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しあわせのたまご

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臨也は笑う。空になった少年の両手は、もうあの白い卵にかかりきりになることはない。あんなものに夢中になっている時間がムダで愚かだったと、すぐに少年も気づくだろう。
「ねえ帝人君、今、どんな気持ち?」
 尋ねる臨也をぼんやりと見返す帝人の目は、ただただ、透明。
「ずっと君を煩わせていたものがなくなったんだよ、ねえどんな気持ち?嬉しい?それとも俺に割られちゃって悔しい?ねえ、どうなの?」
「……あなたは、」
「あはは、泣きそうな顔しちゃってさ。嫌いってどんな感情だか、分かったんじゃないの?」
 高い勉強料だったね、と付け足してやるつもりだった臨也の言葉を遮ったのは、少年の頬を滑り落ちた、たった一筋の涙だった。
「っ」
 声もなく、音もなく、ただまっすぐに見つめた瞳から、はらはらとこぼれ落ちたその涙に、臨也は言おうとしていた言葉をとっさに見失う。
「み、かど、く」
「最低っ!」
 どうして泣いているんだろう。俺が嫌いだから泣いているのか?あんな欠陥品が、泣くほど大事だったとでも言うのか?
「最低!……っ、最低!さい、てい!」
 痛くもない拳を臨也の胸に叩きつける、その小さな掌が震えている。そのまま崩れるように床に座り込んで泣き続ける少年に、臨也は口を開いて何か言葉を探し、見つからなくて閉じて、また探して。
手放せないままの少年の腕。なんだろう、なにか、求めていたことと違う。臨也の言葉で臨也の言動で少年が振り回されるのが楽しかったのに。臨也に全身全霊を向ける少年が、面白かっただけなのに。それなのになんで、臨也のせいで少年が泣くことは、嬉しくないんだろう。
臨也は少年の腕をつかんだまま、子共のように泣きじゃくるその隣にしゃがみこんだ。顔を覗き込もうとすればそっぽを向かれて、手を伸ばせば振り払われる。
「ねえ、帝人君」
 呼びかけても返事は返らず、少年は床に散らばった卵の欠片を見つめてただ泣き続けた。
「帝人君」
 繰り返して何度も、その名前を呼ぶ。けれどもついさっきまではすぐに返ったはずの返事は、頑なにかえらない。
「帝人君ってば、ねえ」
 俺のことが嫌いなの?重ねて訪ねようとして、その質問を飲み込む。それで嫌いだと言われたらどうするのだろう、と臨也は考えた。ついさっき、わからないと曖昧に濁したその声が、嫌いですとはっきりと告げたら。
 好かれないなら嫌われる方がいい。でも、心のそこから嫌われるのは痛い。もしかして、そういうことなんだろうか。臨也は今更自分のしでかしたことの重大さに思い至って、酷く狼狽した。ただ、帝人の卵は壊れているのだから、それに構うくらいなら俺に構えと思っただけなのに。もしかして割る前に素直にそう言ってみたら、あるいは、少年は仕方がないですねとかまってくれたのだろうか。今更その可能性に思い至って、臨也は。
 ただ、どうしたらいいのかもわからずに。
「……泣かないでよ」
 声が震えた。
 心も震えた。
 視界も、少年の腕をつかむ掌も。
「泣かないでよ、ねえ、泣かないで」
 そんなつもりじゃなかった、ただ少しでいいから俺に触ってくれればきっと満足できた。本気で嫌われたかったわけじゃないことを思い知る。自分で泣かせたくせに。泣いている少年の、その原因が自分であることに感じていた優越感が、あっという間に悲しさと切なさに侵食されて項垂れた。
「……つられる、じゃ、ないか」
 だからぼろりとこぼれた涙は、これは。


 全身全霊で君に向かう、ただひとつの。


「っ、なんで、臨也さんまで、泣くんですか」
 よほど驚いたのか、無視を続けていた少年が低く尋ねた。なんで、なんて問われても、答えなど一つしか無いだろう。
「君が泣くから、じゃないか」
「泣かせたのは、貴方でしょう」
「ああ、うん、そうだね」
 そうだったね、臨也は頷いて、掌に残る自分の卵を見下ろした。
 少年の大切にしていたものを砕いたのがこの手なら、じゃあ、どうすれば許されるんだろう。同じことをすれば、少しくらい嫌いじゃなくなってくれるかな。
 臨也は黒い卵を抱えて、無造作にポイと放り投げた。あ、と少年が小さくつぶやいた声が聞こえたけれど、その卵の行先には興味がない。少年の卵が砕けて粉々になったなら、きっと、臨也の卵だって同じようになるだろう。そうしたら、開いた両手で少年の両手を握ろう。
「っ臨也さん!」
 しかし、伸ばした臨也の手を振り払って、少年は慌てたように立ち上がった。涙をぐいと拭ううその手が、まっすぐに指し示したのは。
「臨也さんの卵から、何か、」
「え?」
 臨也も立ち上がって、ゆびさされたそれを見る。黒い破片の中に転がる、真っ白な丸いものは、やっぱり卵によく似ていた。
 少年を引きずるように引っ張って、その白いものを手に取る。一つ拾いあげて黒い破片を払えば、そのすぐそばにもう一つ。
「……卵」
 白い小さな卵、いつか臨也の黒い卵が昔、こうだった。指先に伝わる温もりは、ほのかに温かい。生まれたばかりみたいだ、と思って、正しくそのとおりなのかと理解した。これは、あの黒い卵から生まれた物だ。
「帝人君、手」
「はい?」
「あげる」
 ほのかに熱を持つそれを、少年の掌に載せる。でも、とためらう少年に押し付けて、自分は黒の中からもう一つの白いものを拾い上げた。帝人のもつ卵と瓜二つのそれ。双子の様なその白い卵をなぞり、臨也は、それでようやく笑った。


「おそろい」


 だって俺の卵から生まれたものを、君と俺とで持つんだよ、すごいじゃないか。臨也は笑って笑って、そして少しだけ、やっぱり泣いた。
 俺と君とで、分け合うんだよ。
 それはとても美しくて、とても優しい響きがした。

作品名:しあわせのたまご 作家名:夏野