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何時まで経っても言わないので、痺れを切らして勝手にごそごそと漁っていると、勝手に触るなという怒声と共に救急箱がドカリと机上に置かれた。あるならさっさと出してくれればいいものをと密かに思う。
溜息を一つ零して、置かれた箱に手を伸ばす。ぱかりと開けた箱の中身をざっと確認して、消毒薬を手に取った。
「ちょ、何やって…」
「何って手当てだけど?」
「自分でする!」
「自分じゃしにくいんじゃない?顔だし。一人の時ならまだしも、僕がいるんだし、任せた方が的確かつ確実だよ」
「だからって…!」
「はいはい、ちょっと黙ろうか。先ずは口の傍の傷から、ね」
問答無用で消毒薬を染み込ませた綿を押し付けると、途端黙り込む彼に苦笑を禁じ得ない。
沁みるのか時折眉を寄せる様子を見て、大丈夫かと問い掛ける様に目線を投げ掛けると、むっつりとしたしかめっ面が返ってきた。
やれやれと思いつつも、そうやって何だかんだ言いつつ大人しくしている姿が可愛くもある。野生の猫が懐いた瞬間とはこういう感じなのだろうか。
痛みに悶える彼とは裏腹に、僕は妙に浮ついた気分で手当てを終えた。
それから2週間、未だに僕は7年前の世界に居た。
なんだかんだでこの世界に居続けている僕は、こうして彼の家で夕飯の準備なんかをしている。そしてその姿は、ここ数週間で見慣れた光景になりつつあった。
そんな訳でその日に捕まえた衣食住提供者のお陰で僕は路頭に迷う事もなく、至って平穏に暮らしている。あんまり平和過ぎて、此処が自分の居場所なんじゃないかと間違いそうになるくらいには、穏やかな毎日を過ごしていた。
取り敢えず根城を提供してくれた彼には、信じてくれるかどうかは別として、一連の出来事は包み隠さず話しておいた。巧い言い訳が思い付かなかったというのもあるし、何より彼には嘘を見抜くという厄介な特技がある。長い間世話になるかもしれないという可能性を考えた場合、下手な嘘は返って混乱と問題を招き、自身の首を絞めてしまうと僕は考えたのだ。
意外や彼は、僕の、一般的にみるとキチガイじみた話をすんなりと受け入れてくれた。それはそれで複雑なのだが、変に勘ぐられて警察なんかを呼ばれるよりかはマシである。思わず助かるよと零した言の葉に、彼はそっぽを向いたまま早く帰れとのたまった。随分な言い様だ。
然しそうしたいのは山々だけれども、如何せん帰り方が分からない。この世界に来たのも唐突なのだから、何かふとした拍子に戻るんじゃないかと話した僕に、彼は呆れた様な眼差しを寄こした。
気持ちは分からないでもないが、あからさまな視線は流石に傷付く。臍を曲げる事も出来たが、突拍子もない僕の話を信じ、あまつさえ此処に置いてくれるという事実がそれを踏み止まらせた。
良い感じに衣に色が付き、もうそろそろかと頃合いをつける。出来あがったものを菜箸で取ると、ジュウと実に良い音を立てて油が跳ねた。我ながら良い出来である。彼の喜ぶ顔が目に浮かぶ。
さて、彼が僕につけた条件は一つ。至ってシンプルなものだった。
炊事洗濯、その他諸々。家事の一切を引き受ける事。それが彼――王泥喜法介がつけた、家に居座る事への条件だった。
もしかしたら彼は僕がそういうのを出来ないと踏んでの事だったのかもしれないが、生憎一人暮らしが長かった上に娘の食事を作っていた――それもここ最近はご無沙汰だったけれども――身としては、ある程度の事は出来る。二つ返事で了承した僕に彼はとても複雑そうな顔をしたが、それには敢えて触れないでおいた。下手に突いて追い出されたら困る。
「さて、と」
粗方夕飯の準備が終わったところで、ガチャリと戸が開く音がした。実に良いタイミングだ。
「おかえり」
「…た、だいま」
出迎えてやれば戸惑った様な応えが返る。一人が長かったらしい彼は、どうにもこの遣り取りが慣れないらしい。おはよう。おやすみ。おかえり。ただいま。もう幾つもの言葉を交わしているのに、一向に慣れる様子はない。それも日常と化しつつある風景の一つだ。
「夕飯出来てるよ。手、洗っておいで。着替えもね。その間に準備しとくから」
「分かった」
どこかいそいそと支度をする彼を横目で見ながら、テーブルに食事を並べる。ああいうところは実に子供らしく微笑ましい。思わず笑みが零れる。
そうでなくとも一人の食卓というものは味気無いものだ。それを教えてくれたのは、彼女と――向こうに居る彼だったけれども。