ナイフケース越しの
夕方、に際立った印象はない。小さな時は一日の終わりの合図で、今はただ、馬鹿が増える合図である。
春先の18:00の明るさとも薄暗さとも形容し難い頼りなさが適当に散らばっていた。舗装が短い寿命を終えてぱりぱりと乾きひび割れ、歩きにくいことこの上ない。
思い出したように、或いは忘れられたように、唐突に今日も街の何処かが人の生活から切り離されている。手放された建物、の、死骸。封鎖され、何の用も成さない粗大ゴミ。そこにありながら見放された場所はいつか別の誰かが買って新しい建物を建ててくれるまでじっと待っている。内側にはむき出しの鉄骨やら途切れた配線、ボイラー、内装の残りかすを貯め込んだまま。何にせよゴミには違いない。さてそんな廃墟に残された利用価値と言えば、全うな人間は近付かないという空間の持つ力くらいのものである。
サングラス越しでは、繁華街よりも街灯の少ない路地の夕方の方が、幾分か仄暗くなる。視覚が不自由である分を補おうと静雄の身体が順応を始めた。聴覚と嗅覚、肌に伝わる空気の濁り――臭い。砕けたセメント埃っぽい壁の残骸の発するそれではない。
知っている臭さ。
「あーきたきたシズちゃん」
語尾に音符か星でも付いていそうな声が真上から降ってきた。静雄は眉間に皺を寄せながら心底嫌そうに見上げる。
折原臨也がそこに居た。
折原は一つ上の階から、半分以上無くなってしまった一階の天井――若しくは二階の床――の端に立ち、ふわふわと動物の毛のようなファーをあしらったフード付きコートのポケットに両手を突っ込んで、気さくな様子で静雄を見下ろしていた。このビルに何があったのか静雄の知るところではないが、各階の床が大きく抜けている上に天井まで失くした廃ビルは、お陰で折原に夕暮の空を背負わせていた。
馬鹿は高い処が好きだ、と思いながら静雄はサングラスを外した。壊したく、無かったのだ。
折原は大抵そう、いつも自分より物理的に高い位置からこちらを見ては、ストーリーテラーの笑みで唇を歪めていた。いつも、いつも、腹立たしい。
返事を寄越さず煙草を捨てると後はお決まりの動作だった。火種を靴で踏み消すと同時に手近な机を持ち上げる。なるべく堅くて重くて尖っていそうのものを。なるべく投げた相手に与えるダメージの大きいものを。が、またしても声が言った。
「だめだめ、ここで上に居る俺に机なんて投げたら、シズちゃんの事だから、絶対俺に避けられちゃって、それからその机は何処へ飛ぶと思う?」
「知るか」
「じゃーあ無知なシズちゃんの代わりに臨也君が教えてあげよう。君の投げた机はそこからだと必ず俺の斜め右後ろ、東に30度くらいかな?に飛ぶ。そこにはこのビルがやっとこさ垂直に立っていられる要の柱がある。ここまで言って君が理解してくれていたら嬉しいな。例え腹にナイフが5ミリしか刺さらないシズちゃんでも、頭なんかは鍛えたこと無いだろう?あ、コレ二重の意味でね」
「……ッ、…………殺す。今すぐその口閉じてここに飛び降りろ。んで死ね。その後俺がもう一回殺してやる」
「やだなあシズちゃん。俺は用が有って来た訳であって、君に殺されに来たんじゃないんだけどなあ」
まずはその物騒な机下ろしてくれないかい?シズちゃんにかかると机だろうと何だろうと物騒になるんだけどね、と、立て板に水のようにまた折原。一体臨也の口は何処からそうやって言葉を連れてくればこうも喋繰っていられるのか、静雄は苛立ち紛れに床に机を叩きつけながら思った。
君の暴力には理論が通じないから苦手だ、と折原が言ったことがある。
馬鹿じゃねえの?と思ったことを良く覚えている。力に言葉が負けるのは当たり前だろう。
しかし折原がそう言うからには、普通の人間にならば臨也の言葉は的確に作用しているということだ。どいつもこいつもこのノミ蟲の言うことに耳を貸すからそうなるんだ。聞きたくなければ耳栓をすればいい。面倒ならば聞き流せ。相手をしようと思うな。
以上、“冷静さを欠かない平和島静雄の脳内がはじき出す至極簡潔な折原臨也との付き合い方”は、冷静でない静雄の手の届かないどこか遠くへ行ってしまうので、残念ながら静雄本人も馬鹿の一人に入ってしまう。