りりりん
今朝、実家に着いてまず侘助は彼女の前に正座して挨拶をした。一年前も彼女の、文字通り目の前で正座をして挨拶をしたが、果たして、未だこちら側に立っている自分の挨拶は彼女に届いていたのだろうか。(届いていたら少しくらい笑ってくれたっていいのに。)全くの畑違いの事象なので侘助にはさっぱり想像がつかない。そもそもそんな事を真剣に考え出す時点でナンセンスであるのだが。
「ばあちゃんと喋ったのはあの時が最後だから、あれが俺への遺言になる訳で、んでその後ばあちゃんは死んじゃったから」
枝豆を指で挟んで押すと中の豆が二粒同時に飛び出して、一粒は侘助の唇から零れ落ちた。縁側の床板の上に落ちたそれを食べるか食べまいか迷った刹那に、暗闇から伸びた腕がそれを拾い上げた。
「……幽霊か?」
半ば毒づくように言葉を投げる。侘助の注意力が散漫していたことを差し引いても余りに音もなく気配を感じさせずに現れた男に、ハヤテは耳をぴくぴくと動かしただけで、それ以上の反応はなかった。
「生きているんだが、残念ながら」
腕の主は柔らかな緑色の粒を少し眺めた後、侘助が用意していたビール瓶を一本取り上げると、長い腕を伸ばして手を縁側よりも外へ遣る。そのまま傾け何の前触れもなく中身を豆に振りかけた。
「はぁ!?何してんだよ」
「何って、アルコール消毒だ。食べ物を無駄にしては勿体ない」
ばたばたと音を立て沓脱石の上にビールが落ち、すっかり酒漬になった枝豆を理一は何食わぬ顔で口に放り込んだ。どういう理屈で何が勿体無いのかを今一度説明してみろ、と思う。
「余り旨くないな」
「……馬鹿か」
一蹴するように溜め息交じりに吐き捨て、気を取り直して椀からもう一房の枝豆を摘み上げたところではたと、この色を何処かで見たことがあると感じる。萌黄色と言うか、春の芽吹きはじめの草や葉に近い緑色。
「……」
ああ、そうだ。答えに行き当たった侘助はなんということだと眉を顰める。
「……やる」
「食べないのか?」
器ごと押して寄越す侘助を不思議そうに眺める男の、正にこの男のoz内で使用しているアバターだ。年甲斐が無いどころでは到底言葉が足りない、ファンタジーなアバターをありありと思い出した。これから枝豆を食べるときは常にあの正体不明なグラフィックのことが頭を過るのか、と侘助は夏の盛りだと言うのに薄ら寒い心地がした。
「?……ありがとう」
塩の利いた枝豆を、まるでそういう作業をするかのように取っては口元に持って行き、中身を押し出し、空になった皮を古新聞に載せる理一を横目に見つつ、ポーズというか口寂しさというか、習慣でポケットに手を伸ばしてみたのだが、手は何もない空間で空気をなぞって終わった。煙草は日中籠りきりだった部屋に忘れてきていた。取りに帰るのは面倒であるし、一日窮屈な部屋に居て鬱憤が溜まっていた。仕方が無いので酒を注ぎ足してちびちびと舐める。開放感だけは、まあ、此処に勝るところは無いのだ。
理一、陣内理一。続柄では甥になる年齢の同じ男。十年会わなかった間に相応に歳を取った感はあったが、性格なんてちっとも変っていやしなかった。面倒なところだけが寧ろ強化されていた。
子どもの頃、侘助は理一が嫌いだった。
昔から侘助には、好きだと思える人が少なかった。両手に、ともすれば片手におさまってしまう“すきなひとたち”と“それ以外”で基本的に幼い侘助の認識は形作られていた。その中で、“すき”にも“そうでない”にも属さず、例えば一枚の写真にあとから書き足した文字のように、同一平面上にありがなら決定的に浮き上がってしまった存在が、出会って間もないころの理一だった。とても排他的な子供であった侘助はこう結論付ける――すきでそうでもないのなら、きっと大きらい、だ。
けれど歳が同じせいか二人は纏めて扱われることが多かったし、本家筋の孫で長男の理一と妾の子の侘助は抵抗の出来ない繋がりによって束ねられていた。栄が敢えてそう扱おうとしたためでもある。一緒に遊び、一緒に留守番をし、一緒に風呂に入れられ、一緒に登校し、どちらかが学校を休んだ時は、他に兄弟はいくらでもいたと言うのに必ず手紙やノートを届けさせられた。陣内家のこどもなんて自分の他にもいるのに、と、学校からの配布物が九枚も十枚も重複して持ち帰られる家庭を顧みて侘助は納得のいかない思いがした。それでも、彼女を保護者として配布物を届けにゆくのは自分だけで、礼儀に煩い彼女の前でいつもする正座の煩わしさを差し引いても、幼い侘助にとっては一日で一、二を争う大切な時間だった。
理一の方から侘助を邪険に扱う様子は無く――理一はとても聡いこどもだったのだ――彼の思いつく遊びは興じてみれば面白かったから、いつしか一緒に笑っていたし、そのときの自分は確かに楽しんでいたのだ。結局のところ、理一は侘助にとって、最も時間を共有することの多い子供だった。年の近い別の子どもの三兄弟は、侘助には追いつけないようなサバイバルな遊びをするので、置いていかれるのが癪な侘助は彼らの輪には入らなかった。
歳を重ね、物の見方が幾分わかるようになると、侘助は新たに一つの事に気付く。
理一は、侘助がいつからか、自分でも分からないほどひっそりと飼い続けた願望を生まれもって叶えている。そして侘助の願いがかなえられることは永久にないのだ、と。
駈け出すような駆け落ちるような十代のその頃、吹く風が顔を弄るように蒸し暑くなってきた初夏の日に、丸一日頭を悩ませ考え抜いた末に啓示のようにそれを自覚したとき、侘助は余りの憎らしさに理一をどうにかしてやりたいと思った。十代特有の熱しやすい感情は簡単に燃え、形を変え、鋭いものへと姿を変える。思考も自制も若さ故の蒸発を成し遂げたあとの侘助は、可愛らしいの域を越えることを理一にした。原因は一つでも、付加される感情は他のそれを巻き込んでむくむくと成長し、積極的に理一が抵抗しなかったことは侘助の火に更に油を注いで、そしてそういうことになった――自身の暗黒史が脳裏に蘇りかけて侘助はふん、と鼻を鳴らす。嫌な思い出も、面倒な思い出も、消してしまいたいような思い出も、背景はいつも同じなのだ。
夏の、色。