結び目
燈治の世界には存在しなかったからである、ひとを遠ざけたいと望む気持ちなど。
底抜けに明朗快活であるというほどでもなかったが、燈治は別段人見知りをする質ではないし、ひとに対する好悪の情も濃い方ではなかった。突出して強く好きだと思うものが居ない半面、取り立ててひどく嫌いなものも居ないのだ。野球をする際の場所取りなどで誰かと揉めることは時折あっても、そのことをずっと引き摺って長らく憎むようなことはなかった。
だから、燈治には判らない。
この少年が今、どういう感情を胸に沸かせたのか。備え付けられた座席はたくさん空いているのに、何故わざわざこんな誰の眼も届かぬような片隅の席を選んでいるのか。ひとを忌避する、などという項目は、燈治の中には組み込まれていなかったから。
少年のおもてに現れた化学変化のようなそれが眼にはついた。正体の知れぬそれを不思議であるとは思った。けれどただそれだけで。大して深くは考えなかった。
考えないまま、燈治は少年の言葉を概ねそのまま素直に受け取った。
「……………………ああ……、うん。だよな」
そう頷きながらも相変わらず何故か席に着こうとはせず。
何やら言い淀んでいるような燈治の様子を、彼の黒い眼がちらりと浚う。先刻浮かんだような色はもうすでに霧散していたが、それと入れ替わりにいま在るのは甚だ怪訝そうな色である。
こちらについては先刻のものよりも余程あからさまで色濃いこともあって、燈治にも察することが出来た。どうやら自分は現在、この少年から大層怪しまれてしまっているらしい、ということを。しかし、まあそれも当然なのだろう、と燈治は思った。突然やってきたかと思えば本を読むでもなく突っ立ったまま、用があるらしいのにそれを一向に口にしようとしないのだから。
「えっ、と、」
第一の難関であった声を掛ける、という段階は経たものの。逡巡と葛藤は結局、逆戻りである。
不審げな彼の視線が痛いので、とにかく早く何か言わなければと。強い切迫に背を押された燈治は、とりあえずひとつ訊ねてみることにした。
「あの、さ、お前……………………昨日の、こと、覚えてる……、か?」
昨日の廊下での出来事は燈治を大層悩ませはしたが、彼にとってはそうではないだろう。
昨日の今日なのだから、とも思うけれど、彼が件の出来事をすっかり忘れてしまっている可能性も全くないわけではないのだ。
もし覚えていないと言われたら、自分はどうすればいいのだろう。
燈治が突然思い当たってしまったその可能性について肝を冷やし始めた時、少年は燈治の顔を見詰めたまま首を傾けた。
「昨日って、…………廊下で会ったこと?」
「!」
彼の言葉に、燈治は思わず顔を上げた、のだが。
しかし少年の方はといえば相変わらず然したる感情も浮かべずに、あたりまえのことをなぜたずねるのかとでも言いたげな顔をして。
「それが?」
黒い視線に抑揚のない声音が重なった。
燈治を捉える黒い色の眼は揺るがず返る言葉に温度らしい温度はなかったが、少年の発するその音は、何処か潔くて歯切れが良かった。昨日燈治が感じたような、ゆらりと空恐ろしい空気は今の彼には存在しないようだ。
やはりこの少年は幽霊などではなかった。白く華奢な身体の中にはちゃんと、凛とした芯のようなものが通っている。こうして眼前で改めて相対し、燈治にはそれがようく判った。
速球のような小気味良さを湛える彼の言葉に、意外な快さと好感を抱く一方。燈治はやや困惑しながら一体なんと返すべきなのかということを必死に考えていた。
この少年が幽霊などではなく、ちゃんと地に足のついた生身の存在であることは明らかになった。そして予想外にきもちのいい心根であるかも知れないことも。それだけ判明すれば燈治の目的はもう果たされたも同然であった。あとは互いに名くらい名乗って、適当にこの場を後にすればいい。
それで完遂、の筈なのだが。
燈治の腹には未だ何かが依然消えず、薄黒い色をして燻ぶり続けていた。何かがまだ残っている。終わりではない。まだ、話したいことが。
否。もうひとつ、燈治は彼に訊ねたいことが在る。
それは、
燈治の脳裏に昨日の記憶が蘇った。
不思議な眼と、不思議な言葉。
それらの映像が薄いセロファンになって眼前の少年にぴたりと重なる。そうして、それに吸い寄せられるようにして言葉が喉を突き、彼へ向かって放たれた。
「…………その…………、昨日、廊下でお前が言ってたこと…………あれ、何だったのかな、って思って、さ」
彼が口にした言葉、空気を強く見据えていた彼の眼差。あれらは一体、何だったのか。
そう。それこそが、燈治の抱く核心なのだ。
言い終えてから、燈治は自身のこぼした問いに後からひどく納得し。少し湿った掌を握り締めながら、少年の表情を見遣る。
「、…………」
問いが少年に届いた瞬間、真直ぐに此方を捉えていた彼の眼が。
昨日と同じように、とても不思議な輝き方をしたように見えたのは果たして気の所為だったのだろうか。
燈治は思わずその色を確かめようと身を乗り出したのだが、少年はふわりと瞼を伏せて黒い色の眼を隠してしまった。
「……………………俺、何か言ったっけ? 昨日廊下で顔を合わせたことは覚えてるけど、そのとき何を言ったのかは、よく覚えてないな」
薄い唇に微笑が宿る。初めて眼にする少年の笑みはしかし、やや歪んだものだった。
嘘だ
少年は、嘘をついている。覚えていない、というのは嘘だ。
理屈ではない。燈治は皮膚でそれを鋭く直感した。
だから尚も言い募ろうとしたのだが、その前に向こうから言葉を被せられてしまった。
「何、わざわざそんなことを訊きにこんなとこまで来たの?」
そこに在るのは呆れと揶揄と拒絶。しかし燈治がその笑みから読み取ることが出来たのは呆れのみである。
確かにそれを訊きに、燈治は此処まで来た。これまで全く縁のなかった図書室の場所をわざわざ調べてまで。
それは、少年の言う通りに奇妙なことなのかも知れない。けれど。疑念を燻ぶらせたまま何もせずにおくことは、燈治にとって耐え難いことなのである。だから、此処まで足を向けた己の行動を燈治は決して恥じてはいなかった。おかしなことだとは思わない。
何故なら燈治は、壇燈治という己自身を、信じているのだから。
「、悪いかよ」
だから、言い返した。少しむくれた顔で。
すると、少年は燈治を見て、ほんの少しだけ驚いたように眉を上げた。
「………………………………変わってるな」
それは、全く冗談めかした言葉ではなく、彼はどうやらこころの底から本気でそう言っている様子だったので。燈治はじんわりと苦味を噛んだような、何とも言えぬ気持ちになってしまった。
おかしなやつだと、かわったやつだと、幾度となくそう思っていたのは燈治の方である。なのに、その先方からも全く同じ感想を持たれてしまうとは。『おかしなやつ』に『かわっている』と言われてしまった己は一体どんな人間なのだろうかと、燈治は思わず少し悩んでしまったのだが。
わざわざそんなことの為に俺に話し掛けてくるなんて、ほんと変わってる